みんなの御朱印
自分の御朱印
まだ御朱印が登録されていません
みんなの参拝記録
自分の参拝記録
まだ参拝記録が登録されていません
みんなの動画
自分の動画
まだ動画が登録されていません
基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県桶川市南1-6-11 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
JR高崎線桶川 徒歩2分 |
御朱印授与時間 |
|
電話番号 |
0487713199 |
FAX番号 |
|
公式サイトURL |
|
御本尊 |
|
宗派 |
浄土宗 |
創建・建立 |
|
由来 |
新編武藏風土記稿
足立郡桶川宿
淨念寺 淸水山法恩院ト號ス 淨土宗鴻巢宿勝願寺末 本尊ハ阿彌陀ヲ安ス 外ニ地藏藥師ヲ安ス 地藏ハ弘法大師ノ作藥師ハ聖德太子ノ作ニシテ西尾隱岐守吉次納メシト云 正蓮社團譽善壽當寺ヲ草創シ後京都黑谷金戒光明寺ヘ移轉シ二十一世トナリ文祿四年十月十九日示寂ス 往古ノ開基ヲ朗海ト云貞治七年正月朔日寂セリ 則境內ニ其人ノ古碑アリ 因テ思フニ朗海ノ開基セシハ纔ノ庵室ナリシヲ後團譽上人一寺ニ取建シニヨリ是ヲ開山ト云ナルヘシ 委シキ寺傳モアリシカ明曆二年十月十五日回祿ノ災ニカヽリ舊記等モコトコトク烏有トナリ 夫ヨリ姑ク荒廢セシカ 第十世鸞譽力ヲ盡シテ取建シユヘコレヲ中興開山トス 初ハ下總葛飾郡小金東漸寺ノ末ナリシカ 此僧勝願寺ノ弟子ニテ當寺ヘ移轉セシニヨリ今ノ末トナレリトイヘリ
仁王門 樓門ナリ 樓下ニ仁王ヲ安シ上ニ鐘ヲカク 元祿十四年ノ銘文アリ考證ニ益ナケレバ載セス 天神社 觀音堂
境内掲示板
私たちのお寺浄念寺
【宗派】
浄土宗。浄土宗は法然上人が鎌倉時代の承安五(一一七五)年にお開きになりました。
【信仰の特色】
阿弥陀仏の平等で慈悲にあふれた救済の本願力を信じて「南無阿弥陀仏」という念仏を称えます。念仏を称えることにより、感謝の念が芽生え、家庭での安らぎ、社会への奉仕、自然との共生へと繋がってまいります。
【浄念寺の歴史】
浄念寺は正式名称を清水山報恩院浄念寺と申します。
室町時代後期の天文十五年(一五四六)年、下総国小金(現在の千葉県松戸市)東漸寺の團誉桂全善壽上人が浄念寺を開創いたしました。江戸時代後期にまとめられた『新編武蔵風土記稿』に、「往古の開基を朗海と云、貞治七年正月朔日寂せり則境内に其の人の古碑あり、因て思ふに朗海の開基せしは纔の庵室なりしを後團誉桂全善壽上人一寺を取建しによりこれを開山と云ふなるべし」と記されているように、室町時代初期(一三六〇年頃)に朗海上人が桶川のこの地に建てた修行のための庵をもとに、戦国時代に團誉桂全善壽上人が寺院として整えたのが浄念寺の始まりであります。
浄念寺は開創された頃より、桶川宿と深い関係があったと考えられます。江戸時代初頭には、桶川宿を治めた西尾隠岐守吉次によって、地蔵菩薩像(本堂内に現存)・薬師如来像(薬師如来が納められていた石塔のみ現存)が奉納されたことからも、このことが伺えます。
阿弥陀さまにたいする信仰が盛んであっただけでなく、「足立新秩父観音霊場」の札所として、観音さまへの信仰も篤いものでありました。また明治以降は、桶川不動尊の御所としての信仰も集めております。また、昔の人たちの信仰の様子は、現在でも境内地に残っている様々な石塔、仏像からうかがい知ることができます。
なお現在の本堂は平成十六年に新築されました。 |
神社・お寺情報 |
境内掲示板
仁王門(山門)・梵鐘・仁王像
浄念寺のシンボルというべきこの朱塗りの仁王門は、『新編武蔵風土記稿』に「仁王門ハ楼門ナリ楼下ニ仁王ヲ安シ、上ニ鐘ヲ懸ク、元禄十四年ノ銘文アリ」と記されてあるように、元禄十四(一七〇一)年に再建されたものであります。
この仁王門の上には梵鐘が懸かっています。浄念寺のかつての梵鐘は寛保元(一七四一)年に鋳造されたもので、浄念寺のご詠歌に「浄念寺 鐘の響きや法の音 子安の誓い深き桶川」と詠われているように、その美しい音色は、人々に時を知らせるために桶川宿の隅々にまで鳴り響いたといわれています。残念ながら、この梵鐘は第二次大戦の際、求めに応じて供出され現存しておりません。現在、仁王門に懸っている梵鐘は、昭和四十年に鋳造されたものであります。
仁王門の楼下にいらっしゃるのが、二体の仁王像であります。明和五(一七六八)年に開眼されました。口を開けているほうが阿形像、口を閉じているほうが吽形像といい外から侵入しようとする法敵から仏法を守護しております。
境内掲示板
絵師 狩野法眼伊白の碑
狩野派の絵師である絵師狩野法眼伊白は、江戸時代の後期である寛政二(一七九〇)年に江戸に生まれました。狩野派の絵を学び「法眼」の位を得て、二十二才の頃に水戸藩の奥絵師山内養春の養子となり水戸藩主の水戸斉昭にも仕えましたが、まもなく旅心が生じ諸国行脚の旅に出ます。行く先々で絵を描く生活を送った後、嘉永年間(一八四八~一八五四)頃に桶川宿に居を定めました。十数年の創作活動をおこない、元治元(一八六四)年五月六日に桶川の地で七十四才の生涯を終えました。
この碑の文は、伊白の死後の慶應元(一八六五)年、比企郡三保谷新堀(現・比企郡川島町)出身の詩人、石黒張齋(綱三)が詠んだもので、伊白の生涯、彼の絵がいかに素晴らしいものであったか、死後浄念寺に埋葬されたことなどが記されております。
境内掲示板
板石塔婆
板石塔婆とは、主に緑泥片石を利用した石製の塔婆で、鎌倉時代から江戸時代初頭にかけて死者の追善供養や自らの極楽往生を願って造立されたものであります。
浄念寺の板石塔婆は、最も古いものは正和四(一三一五)年、最も新しいものが天文十九(一五五〇)年のものであります。その中の一つが、浄念寺の礎となった庵を作り修行に励んだ、朗海上人を供養するための板石塔婆であります。(中央、一番大きな板石塔婆)朗海上人の板石塔婆には次のように刻まれています。
臨終唱曰 臨終至時 懺悔念仏
権律師 貞治七年 戌申 正月一日
朗海 業障便転 則得往生
境内掲示板
太子堂(聖徳太子)
聖徳太子は、日本に仏教が伝来したころ、仏教を深く信じ篤く保護をしたため、「日本仏教の祖」といわれ、篤く信仰されていま。
不動堂(不動明王)
すべての魔や煩悩を祈伏し、衆生を救済するのが不動明王です。
現在浄念寺におまつりしてある不動尊は、もとは南蔵院でまつられていましたが、廃仏毀釈で南蔵院が廃寺となるに伴い、明治二年に浄念寺へと移座いたしました。
この不動尊は元禄(一六八八~一七〇四年)の頃、桶川宿の水谷某の畑の中から掘り出されたと言われており、霊験あらたかゆえ多くの参拝を受けてまいりました。毎月二十八日は「不動尊縁日」で、多くの人がお参りに訪れます。
境内掲示板
左から四番目
徳本名号碑
徳本上人(一七五八~一八一八)は、江戸時代中期に諸国を遊行して念仏を広めた浄土宗の僧侶であります。大声で念仏を称える「徳本念仏」は江戸で爆発的に流行し、彼は信者の求めに応じて独特な書体の名号を書いて与えました。その名号を石に刻んだ名号碑が各地で主に女性が構成していた念仏講などにより造立されました。浄念寺の徳本名号碑は、文政元(一八一八)年に府川甚右衛門の妻ら四十七人の寄進により造立されたものです。
一番左
西尾隠岐守吉次ゆかりの供養塔
浄念寺には、江戸時代初期に桶川を治めた西尾隠岐守吉次の二つの守り本尊が寄進されました。その一つが地蔵菩薩像(本堂内に現存)であり、もう一つが薬師如来像であります。この薬師如来像は、度重なる災禍のためか現存しておりませんが、薬師如来が納められていたと考えられる供養塔が残っております。 |
例祭日 |
|
神紋・寺紋 |
未登録
|
更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2024/05/03 06:41:52
|
※神社やお寺など日本文化の専門企業が算出している日本唯一のオリジナルデータですので、ご利用になりたい法人様やマスコミの方々は
こちらよりお気軽にご相談ください。
近くの神社・お寺
近くのお城
神社・お寺検索
※は必須です
※「神社・お寺両方」を選ぶと、一度に全て検索ができ大変便利です。プレミアム会員限定の機能となります。登録は
こちら。