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基本情報
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住所 |
千葉県香取市与倉1012 |
五畿八道 令制国 |
東海道 下総 |
アクセス |
JR成田線大戸 徒歩32分 |
御朱印授与時間 |
|
電話番号 |
0478581336 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御本尊 |
千手観世音菩薩 |
宗派 |
臨済宗妙心寺派 |
創建・建立 |
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由来 |
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神社・お寺情報 |
東国花の寺・千葉5番札所
境内掲示板
大龍寺の板碑
大龍寺は大同年間(八〇八~八〇九)に玄圓律師が草庵を営んだのが始まりで、のち応安元年(一三六八)に矢作城主、国分胤詮公がこの地を含む境内三万坪余を寄進し諸堂伽藍を建立して栄西禅師の法孫大航慈船禅師を招いて開山とし国分家の菩提寺となりました。以来天正十八年(一五九〇)矢作城落城まで国分家の菩提寺として続いたが、徳川時代に入ってこの地を領した浅野家の祈願寺となり、また与倉、観音、鳥羽地区の菩提寺として存続した。明治に入って、浅野家も禄を離れ、以来村寺的存在として続いてきた。
大龍寺には、嘉暦四年(一三二九)より寛永十五年(一六三八)までの三十基もの紀念銘のある板碑があります。この板碑の内、江戸時代の一枚を除いて総て、国分家関連のものと考えられます。板碑は最前面の五基を除いて年代順に並べました。
前面右の永徳三年(一三八三)十二月廿日の板碑には、金剛般若経の偈文が刻まれています。開山大航慈船禅師の選文によると考えられます。
次の文明十二年(一四八〇)二月廿日の板碑には「阿弥陀佛」の文字で像をつくりあげたものが刻み込まれています。数少ない板碑の一つです。
正面の大きな板碑には、天文廿一年(一五五二)五月四日、奉為桃溪因公禅定門菩提也と刻字されております。大龍寺十三世大蟲和尚の語録に詩偈と共に「大龍(寺)旧檀越」と書かれている。年代からみて、国分家十一代胤相公のものと考えられます。
前列左の板碑には、天正十四年(一五八六)十月廿六日、奉為龍庵宗雲禅定門と刻字され金箔がほどこされています。この板碑は没年、金箔、戒名からみて、大蟲和尚を師と仰ぎ、永禄、天正年中の合戦で房州里見の軍勢を撃ち破った、十三代国分胤憲公のものと思われます。
国分家歴代の系図
矢作国分初代常義-二代胤実-三代胤長-四代泰胤-五代胤氏-六代胤詮(大龍寺創建) -七代忠胤-八代憲胤-九代之胤-十代盛胤-十一代胤相-十二代朝胤-十三代胤憲-十四代胤政
香取市指定文化財 金泥板石塔婆
天文十二年(一五四三)、天正十四年(一五八六)の紀念銘をもつ下総式板碑で種子に金泥があり、関東地方でも貴重なものです。國分氏造立のものと推定される。
昭和五十九年九月一日 香取市教育委員会 |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2024/04/29 05:00:14
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