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基本情報
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住所 |
山口県山口市大殿大路119 |
五畿八道 令制国 |
山陽道 周防 |
アクセス |
JR山口線上山口 徒歩6分 |
御朱印授与時間 |
|
電話番号 |
0839221009 |
FAX番号 |
0839236622 |
公式サイトURL |
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御本尊 |
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宗派 |
曹洞宗 |
創建・建立 |
弘治三年 (一五五七) |
由来 |
【龍福寺】 毛利元就公の長男・隆元公が、養父・大内義隆公の菩提寺として、天皇の論旨を受けて建立した寺である。 この境内地は大内館の跡地で、中世大内氏の居館があり、大内氏はここで二百余年間政務を執ったのである。 天文十八年(一五四九)元就公は、元春公、隆景公の二子を連れて、この大内館に参上し、大いに歓待された。 境内にある資料館には、大内氏と毛利氏の関係のわかる資料も多くある。
【龍福寺本堂】-重要文化財- 龍福寺は、もとは白石(山口市白石)の地にありましたが、天文二十年(一五五一)に兵火にかかり、そのままになっていたものを、弘治三年(一五五七)毛利隆元が大内義隆の菩提を弔うためにこの地に再興しました。 明治十四年(一八八一)、龍福寺は火災に遭い、ほとんどの建物が焼失しました。 そのため、吉敷郡大内村(現在の山口市大内御堀)の大内氏の氏寺であった天台宗の興隆寺から釈迦堂を移築し、曹洞宗の龍福寺本堂へ改造しました。 この本堂は、文明十一年(一四七九)に建立されたと言われており、内部の大虹梁・板蟇股・組物などは室町時代の建築の特徴をよく表しています。 移築後、約百年の月日が経ち、大規模な修繕が必要となったことから、平成十七年から平成二三年にかけて保存修理工事が行われ、建立当初の室町時代の姿へ戻されました。 本堂は、桁行五間・梁間五間の入母屋造で、屋根は桧皮葺、正面には蔀戸があります。 なかでも内・外陣を隔てる板扉と格子戸の組み合わせによるしつらえは、大変珍しいものです。
【大内館跡】-史跡- ここは、大内氏二四代・弘世が正平一五年(一三六○)頃、それまでに館があった大内御堀から山口に移り、館を定めたところです。 大内氏は弘世以後歴代がここで政務をとり、その領国は、中国・九州地方までおよんだため、山口は西日本の政治経済の中心地となりました。 また、大内氏は海外との交易によって富の蓄積と異国文化の移入、京の戦乱を避けて公卿・僧侶などの文化人が、この館を訪れたことによって、当時の山口は京都をしのぐほどの富みと文化を誇ったといわれています。 天文二十年(一五五一)大内氏三十一代・義隆は重臣陶晴賢の叛乱により滅亡しました。 その後、陶氏を滅ぼした毛利氏は、弘治三年(一五五七)大内義隆の菩提を弔うため、この館跡に龍福寺を建立しました。 館は、百間四方の堀と土塁に囲まれた中に造られていたと言われています。 現在は、ほとんどその面影を見ることは出来ませんが、山門の東側・竹薮の中に土塁の一部を見ることができます。 |
神社・お寺情報 |
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例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】高御産巣日神
【
最終
更新日時】2018/08/15 10:37:46
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