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基本情報
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住所 |
埼玉県児玉郡神川町植竹577 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
JR八高線丹荘 徒歩8分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0495772201 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御本尊 |
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宗派 |
天台宗 |
創建・建立 |
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由来 |
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神社・お寺情報 |
境内碑
義民田村杢之助翁顕彰碑
明和元年(一七六四)、幕府は中山道の交通量増大を理由に、沿道の村々に増助郷(使役の拡大・強化)を指示した。きびしい年貢の徴収やうち続く天災等に耐えていた農民にとって、まことに苛酷な要求であった。生きるために増助郷制度の撤回を願う農民は、明和元年十二月十六日、十條河原(現美里町)に集まった。江戶時代、最大規模の農民行動といわれる「伝馬騒動(明和の大一揆)」の発端である。
植竹村(当時)に住み、実直な農民としての生活を営んでいた、七十歳の田村圭之助翁も、その中の一人であった。師走、寒風の中の協議は終日続いたが結論をみず、焦燥の色も濃くなった時、杢之助翁は立ち上がって、「責任は七十歳の俺がとる。集団で幕府に訴えでて、増助郷をとりやめてもらう以外に、俺たち百姓の生きる道はない。」と大声で叫び、大集団の行動を方向づけたのであった。(古文書「尚風録」による)直訴は禁制であり、一揆の首謀者には極刑が課せられる時代であった。
騒動は、本庄・深谷・熊谷・川越にまで拡大し、打ちこわし等の行動にも発展したが、関東郡代伊奈半左衞門忠宥の「願出承認」の決定によって、しだいに沈静化し、明和二年一月末には終焉をみた。しかし、同時に参加者の追及が開始され、翁は一月二十四日逮補二月二日入牢、三月治め牢死されたと「尚風録」は記している。酷寒の牢内で、何かあったのか、その事実を知る由もないが、翁は自らの言動に誇りを持ち、従容として死を迎えたことであろう。
二百年の歳月は、この翁の事績も時間の中に埋没させてきたが、郷土史研究家茂木繁久氏(美里町)はじめ地元の有志諸氏のご努力によって昭和六十三年(一九八八)翁の墓碑・墓籍簿に合わせて、子孫の存在も確認された。以後、翁の慰霊法要を、大字植竹として執行してきたところである。
ここに、長慶寺住職松永博英氏はじめ同志相図り、天台宗「一隅を照らす運動」によせて、翁顕彰の碑を建立するとともに、顕彰会を設立して、事績を後代に伝えるものである。
平成四年三月十六日
義民田村杢之助翁顕彰会
題字 住職 松永博英 撰文 田村裕 |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2025/07/20 11:27:20
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