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基本情報
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住所 |
埼玉県鴻巣市箕田2041番地 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
JR高崎線北鴻巣 徒歩11分 |
御朱印授与時間 |
|
電話番号 |
048-596-0550 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
【御祭神】 須佐之男命(すさのおのみこと) 櫛名田姫命(くしなだひめのみこと) 大国主命(おおくにのぬしのみこと) 応神天皇(おうじんてんのう) 神功皇后(じんぐうこうごう) 【御神徳】 渡辺綱(わたなべのつな) |
創建・建立 |
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旧社格 |
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由来 |
【社頭掲示】箕田氷川八幡神社御由緒
□御縁起(歴史)
氷川八幡神社は、明治6年(1873年)、当時箕田郷内に祀られていた永川社、八幡社などニ十余社のお社(ヤシロ)を併合して、箕田郷の郷社として八幡社のあった現在地に祀られたものである。
氷川社は、承平8年(西暦938年)清和(セイワ)天皇の孫である源 経基(ツネモト)が武蔵の国の国介(クニノスケ)になってこの地に赴任して統治した際、大宮の氷川神社から勧請(分けて祀ること)したと伝えられており、中宿(ナカジュク)地内に祀られていた。
八幡社は、源経基の臣下であった源 仕(ツカウ)が経基と相談して、天慶4年(西暦941年)現在地に京都の石清水八幡宮から勧請したもので、仕の孫の渡辺 綱(ツナ)によって神田(八幡田の地名あり)が寄進され再興されたものである。
仕は、嵯峨天皇のひ孫にあたり、平将門(タイラノマサカド)の乱や藤原純友(フジワラノスミトモ)の乱の平定に武功をあげ、武蔵の国の国守に任ぜられてこの地に住んだものであり、綱は、丹波の大江山(オオエヤマ)に住む鬼を退治した逸話で有名な武将である。
ともに武勇に優れ、戦いの折はこの八幡社に祈願して武勲をたてたので、八幡社は後世、戦いの神様として近隣の崇敬を集めた。
創建
氷川社 承平8年(西暦938年)
八幡社 天慶4年(西暦941年)
新編武蔵風土記稿
足立郡箕田村
八幡社 當社ハ渡邊源五綱ヲ祀リシユヘ綱八幡ト唱フト又綱ノ守本尊ヲ八幡ニ祀リシ故ナリトモ云又禰宜加藤出雲カ藏スル文祿四年記セシ箕田系圖ニハ永延二年七月十五日源五綱當社竝ニ諏訪上下明神ヲ箕田鄕ニ勸請スト載タリ何レカ實ヲ得タルニヤ詳ナラス社邊ニ屋敷跡ト云所アリ是ヲ六孫王經基ノ陣所トモ賴義ノ陣所ナリトモ云又箕田武藏守源仕カ居跡ナリトモ稱セリ今按ニ仕ハ大納言昇ノ子ニシテ從五位下ニ任シ箕田武藏守ト稱シ其子箕田源次充ハ武藏守經基ノ臣トナリ充ノ子源五綱モ當社ニ住シテ箕田ヲ名乘シカ後賴光ニ仕ヘテ攝州渡邊ニ移リシヨリ渡邊ヲ氏トセシ由前ノ系圖及武家評林等ニ載タレハ當所ヲ仕カ居跡ト云コト其ユヘナシトセス又經基賴義等ノ陣所ト云ハ正シキ據ナケレト皆武藏守ニ任シタル人ナレハ古ニヨリテコヽヲ陣所トナセシモ知ルヘカラスサレト今專ラ此社邊ノミヲ其跡ナリトスルハ誤ナルヘシ廣ク近鄕ニワタリタル構ナリシナラン
別當 長榮寺 辯財山ト號ス眞義眞言宗村內龍珠院ノ門徒ナリ本尊不動ヲ安置ス 辯天社 天滿宮
禰宜加藤出雲 家ニ文祿四年記セシ箕田系圖一卷ヲ持傳フレト已ハ箕田ノ子孫ト云ニハアラスコハ綱八幡ト號スルヨリ古書ニ據テ作リタル系圖ナルヘシ記ス所大抵諸家大系圖武家評林ニ相似タリ |
神社・お寺情報 |
【渡辺綱ゆかりの社・綱神社】
ここ箕田の地は、嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地であり、源仕(みなもとのつこう)・源宛(みなもとのあたる)、渡辺綱(わたなべのつな)の三代がこの地を拠点として活動を展開したと伝えられている。
源宛の子に綱が誕生したが、生後間もなく父母が亡くなり、摂津の国渡辺庄にいた伯母に養育されたので、渡辺性を称した。
綱は幼少のころより鋭敏壮武で、摂津の守源頼光に仕え、世に四天王随一と称された。
丹波の大江山に住む酒呑童子退治や京都一条戻橋の上で鬼の腕を切り落とした逸話で有名な武将である。
綱はその後出生地箕田を領することになり、永延2年(988年)にこの社を再興し、神田として今の八幡田(鴻巣市八幡田地区)を寄進した。
綱は戦場に赴く際はこの社に祈誓し、常に大勝利を得ており綱の守護神となっていた。
これ故、この社は別名「綱神社」とも呼ばれている。
(氷川八幡神社・ご由緒より)
鴻巣市指定金石文
箕田碑
昭和三十六年七月十一日指定
箕田は武蔵武士発祥の地で、千年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営した。
源経基(六孫王清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介として当地方を治め源氏繁栄の礎を築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(県史跡)。源仕(嵯峨源氏)は箕田に住んだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝えられている(県旧跡)。
箕田碑はこの歴史を永く伝えようとしたものであり指月の撰文、維碩の筆による碑文がある。裏の碑文は約二〇年後、安永七年(一七七八)に刻まれた和文草体の碑文である。
初めに渡辺綱の辞世
世を経ても わけこし草のゆかりあらば
あとをたづねよ むさしののはら
を掲げ、次に芭蕉・鳥酔の句を記して源経基・源仕・渡辺綱の文武の誉れをしのんでいる。
鳥酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄の門人が当地の桃源庵文郷である。たまたま白雄が文郷を尋ねて滞在した折りに刻んだものと思われる。
昭和六十二年三月
鴻巣市教育委員会
(篆額)箕田碑
武藏州足立郡箕田邑田間有一小竹叢名爲射貫相傳承平之際源公經基爲鎭在于此邑公嘗歸崇三寶欲營無量
壽堂因卜其地乃執弓跨馬出于城外北面發矢驗其所墜而建焉今觀於此叢縱横有畫密若束箭苞茂不増枯痒不
滅使人驚異蓋公之・也允武補育上下始受源姓拜大將軍不啻專美往古後裔氏族煕相續人民服歸焉其威・照
明熏蒿以赫厥靈宣哉未戒剪伐而民畏敬也傳之觀於郷而知王道之易々也知其功績布在方策吾儕何言後擧源
仕爲箕田令仕也勇智于城公侯其子綱也亦赳々武不鷹揚鷲攫如熊口碑永世傳云深山大澤出龍蛇夫箕田者勇
武之所蟠可謂武藏之武庫也今茲己卯之秋余遊于此佐藤加藤島村関根及邑長等相議欲碑此叢之元由而施于
不朽就請于余々曰人傑地靈實鍾秀焉此擧也亦類而巳略識其事銘曰
惟此叢竹 雨露養育/聲名馥郁 嗚呼・在/更見遺愛 永傳千・
寶暦九季己卯九月 前龍淵指月老衲撰
東都龍齊山維碩書
陰 世を經てもわけこし草のゆかりあらは/あとをたつねよむさしのゝはら
萬壽二年の春源綱行行齡七十有三命おはらんとせしときまくらにのこせし詠歌とそ君位に背書して則曹傳山寶持禪刹に安す星霜つもりて七百餘・なをもわけこし草のゆかりあらはと碑面に古蹟をあらわすものから國風のみそひともしゆきゝの人に何かつゝまんゆへに翁の二句をそへて文武のほまれをはるかにしたふ
蝶の飛はかり埜中の日かけかな 芭蕉翁
蜷のすむ籔さへ見ゆるしみつかな 鳥醉翁
安永七年未春三月/桃源庵文郷建/しら雄坊書 |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
丸に渡辺星
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2023/03/18 19:29:32
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