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参拝日:2018年8月10日 00:00
★★★★★ 参拝日:2023年8月13日 12:18
参拝日:2023年8月12日 09:10
参拝日:2023年6月8日 15:45
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住所 | 和歌山県岩出市根来2286 |
五畿八道 令制国 |
南海道 紀伊 |
アクセス | JR和歌山線下井阪 徒歩44分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0736621144 |
FAX番号 | 0736621044 |
公式サイトURL | http://www.negoroji.org/ |
御本尊 | 大日如来・金剛薩埵・尊勝仏頂 |
宗派 | 新義真言宗 (総本山) |
創建・建立 | 大治元年(1126) 開山 興教大師 (覚鑁上人) |
由来 | 根來寺(ねごろじ)を開創された覚鑁(かくばん)上人は肥前国藤津荘(現在の佐賀県鹿島市)で生まれました。13歳で京都・仁和寺の寛助僧正に従い出家得度し、奈良と京都を往復しながら仏教を学び、20歳になると高野山に登り、真言密教の復興に努力しました。 やがて鳥羽上皇の庇護を受け、長承元年(1132)に学問探究の場である「伝法院」、修禅の道場である「密厳院」を高野山上に建立します。同時に根来近郊の岡田・山東・弘田・山崎の荘園と本寺豊福寺(のちに根來寺)を院宣により賜り、覚鑁上人を筆頭とする大伝法院は大いに隆盛しました。 さて、大伝法院・弘田荘、根来には豊福長者(とよとみちょうじゃ)が建てた葛城山系の山岳信仰をおこなう草庵がありましたが、覚鑁上人は、その豊福寺(ぶふくじ)の境内に、末寺の学問所として「円明寺」と「神宮寺」を造られ、康治2年12月12日(1143)に円明寺にて49歳の生涯を閉じられました。 覚鑁上人の入滅後、大伝法院は高野山で発展し十三堂塔が建立されましたが、仁治3年(1242)に焼失。その後、正応元年(1288)頃、頼瑜(らいゆ)僧正が大伝法院の僧侶の教学(学び)の拠点を根来に設けました。 頼瑜僧正の学風は聖憲尊師に受け継がれ「新義教学」として大成しました。中世根来寺は多くの学僧を抱える「学山根来」であったことが、伝えられた多くの聖教史料から近年明らかになりました。当時の根來寺境内を示す「根来寺伽藍古絵図」には、覚鑁上人の法灯を守る法会を営む堂塔伽藍と中性院に代表される教学を伝受する300~400の院家が描かれております。 戦国時代、大きな勢力を備えた根來寺は、当時の様子を書いた宣教師ルイス・フロイスの『日本史』にも紹介されています。しかし、こうした強大な寺社勢力を危惧した豊臣秀吉は天正13年(1585)3月に紀州根来に攻め入り、大塔・大師堂などの2~3の堂塔を残して全山焼失してしまいました。 その後しばらく復興を許されませんでしたが、やがて紀州徳川家の外護を受けて、大門・伝法堂・不動堂など主要な伽藍が復興され、また、東山天皇より覚鑁上人に「興教大師」の大師号が下賜されました。 現在 根來寺は新義真言宗の総本山として、興教大師の御廟を守り続けております。葛城連峰の端に、広い境内を有し、国宝に指定される日本最大の木造の『大毘廬遮那法界体性塔』(だいびるしゃなほっかいたいしょうとう)通称「大塔」のほか、宗祖 覚鑁上人独自の教学をあらわす大伝法堂には、重要文化財の本尊大日如来(だいにちにょらい)・金剛サッタ(こんごうさった)・尊勝仏頂(そんしょうぶっちょう)を安置しています。本尊三尊像と国宝大塔は興教大師覚鑁が高野山大伝法院に創建したかたちをそのまま根來寺において再興した姿を現し、法灯がうけつがれました。史蹟・根來寺境内は中世の佇まいを残し四季折々桜・青葉・紅葉が変化に富み多くの参拝者の目を楽しませています。 根来寺公式HPより |
神社・お寺情報 | 国宝、大塔は我が国最大の木造多宝塔だそうです。 |
例祭日 | |
神紋・寺紋 | 三つ柏 |
更新情報 | 【
最終
更新者】しんべえ 【 最終 更新日時】2022/02/14 19:02:12 |