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住所 | 熊本県熊本市水前寺公園1-25 |
五畿八道 令制国 |
西海道 肥後 |
アクセス | 熊本市電水前寺線国府 徒歩0分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0963834874 |
FAX番号 | 0963833050 |
公式サイトURL | http://kakuhouji.sakura.ne.jp/ |
御本尊 | 阿弥陀如来 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
創建・建立 | 文禄元年(1592年)釈了意開基 |
由来 | 覚法寺創設期 覚法寺の山号は、早川山(そうせんざん)と号します。 なぜ早川山と申すかといいますと、早川(そうがわ)といわれる地から、このお寺がスタートしたからです。 文禄元年(1592年)、覚法寺初代・釈了意によって、早川(そうがわ)の地に坊舎を建立し、覚法寺が開基されます。現在の熊本県甲佐町早川(そうがわ)の場所になります。 覚法寺初代である了意という名は、出家後の法名です。天正12年(1584年)までは、阿蘇氏24城のひとつ、早川城(そうがわじょう)城主でありました。しかし、時は戦国の世であります。城主は城を開城して、のちに出家得度をしました。(天正8年(1580年)の隈庄城の戦で、その時の城主、早川吉秀は戦死したとのことなので、出家した了意とは、早川吉秀の親族子孫と考えられる。) 覚法寺第一次移動期 寛永18年(1641年)覚法寺第三代慶味の時、肥後細川藩となり城下町(現在の熊本市中心部河原町あたり)に寺基を移しました。 その当時になると時代は、戦のない平穏な江戸時代に入り、熊本も肥後細川藩となり熊本城を中心とした一帯は、城下町として栄えた場所になります。 この場所一帯は、浄土真宗のお寺が、かなりたくさん集中して建立されています。 覚法寺第二次移動期 幕末から明治時代に突入していく激動の時代。平穏な時代は終わり、幕末から再び戦の時代へ。 明治10年(1877年)覚法寺第11代一徳の時、西南の役によって本堂を焼失しました。 再び寺基を移動することになり、次の移動地は、『出水町大字今』の地(現在の熊本市出水一丁目)です。別名「今村」と言われていました場所ですが、そちらに移動しました。 写真上は、現在の熊本市出水一丁目(旧今村)の交差点です。 写真下は、当時覚法寺が建立されていた場所あたりで、現在は民間の駐車場になっているようです。 覚法寺第三次移動期 去る世界大戦により…再びお寺は損壊しました。当時、熊本市一帯は、『熊本大空襲』にあいました。 そして昭和35年(1960年)、現在の熊本市水前寺公園に移転しました。 そして現在の覚法寺 電車通りに面した非常にわかりやすい場所です。『国府』の電停からも直ぐです。 この間歴代住職や、門信徒の方々には大変なご苦労があったことと思われます。現在の場所にも有縁の方々の並々ならぬご尽力によるものです。いるようです。 覚法寺第三次移動期 去る世界大戦により…再びお寺は損壊しました。当時、熊本市一帯は、『熊本大空襲』にあいました。 そして昭和35年(1960年)、現在の熊本市水前寺公園に移転しました。 そして現在の覚法寺 電車通りに面した非常にわかりやすい場所です。『国府』の電停からも直ぐです。 この間歴代住職や、門信徒の方々には大変なご苦労があったことと思われます。現在の場所にも有縁の方々の並々ならぬご尽力によるものです。 (覚法寺HPより抜粋) |
神社・お寺情報 | |
例祭日 | |
神紋・寺紋 | 桐車 |
更新情報 | 【
最終
更新者】ポチョムキン 【 最終 更新日時】2022/04/29 13:58:31 |