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★★★★ 参拝日:2019年5月13日 08:20
龍神村にご鎮座。 こちらは丹生都比売神がご祭神です。 和歌山・奈良には多い丹生神社ですが、ここがおそらく最南端だと思います。(宮司様にも確認) 境内はご本殿あたりに木々が立ち並び、鳥居は日が当たる感じです。 鳥居は南側ですが、アクセスは東側となります。車は境内に停めさせていただきました。 境内は石垣の工事の方がいらしたので、宮司様宅を教えていただき、御朱印をいただきました。 とてもお優しい宮司様で、お話しをお伺いさせていただきました。 宮司様宅は境内から南東方向。 境内から南側の橋を渡って、保育園の南側の道を東に。 その道の一番北東付近の左手のお宅です。
★★ 参拝日:2020年12月13日 16:54
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住所 | 和歌山県田辺市龍神村東224番地 |
五畿八道 令制国 |
南海道 紀伊 |
アクセス | |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0739-78-0010 |
FAX番号 | |
公式サイトURL | http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=7065 |
御祭神 | (主祭神)丹生都比売神 (配祀神)丹生都彦神 健御名方神 倉稲魂神 大名持神 御食都神 狭依姫神 保食神 少田比古那神 誉田別神 三筒男神 須佐之男神 多岐都姫神 日本武命 久々能知神 火結神 瀬織津姫神 菅原道眞 香々背男命 事代主神 八衢毘古命 猿田彦命 天八坂入彦命 |
創建・建立 | |
旧社格 | |
由来 | 当丹生神社の祭神は、丹生都比売と申し奉り、社地を巨勢原と称し此の地に御鎮座せり。大和国丹生川上神社の御祭神と御姉妹の神漏美なり。巨勢原は大和朝廷の豪族巨勢一族が、壬申の乱(六七二)に敗れこの地に落ち延びて来た巨勢の地名であろう。明治初年の頃の社格調査の時、大和の国丹生川上神社より神漏美調査の為に、当時の山地大庄屋広井原小川惣吉方え、当丹生神社の御由緒報告の照会がある。往時文治の頃玉置氏大和の国吉野郡東村内御館増賀城を引越し、当地鶴ケ城に移住せしより代々城主の崇敬厚く、社殿壮麗にして例祭には山地組大庄屋が郡奉行代理として参向奉幣、寛文三(一六六五)年の古文書に「長床次第有之、山地殿は一段高く由郎衛門、上座の右の座頭は久保、久保の右の座古久保勘解由小川松本は左え付き、右の座頭林田ノ岡右の座の如し・・・」とあり玉置氏落城後は村民にて奉祭せし。天正十三(一五八五)年豊臣軍南征の時 社殿神宝悉く烏有に帰す。承応三(一六五四)年社殿再建時の棟木札、表、「干時承応三年九月二十六日」、裏、「大工熊野本宮墨屋守、高室八兵衛」とある。再建後八年を経た寛文二(一六六三)年の、壬申天七月七日、高野山実相院唯心阿闍梨因壇越之求書之と記された棟木札があり、古くより高野山と山地郷の関りがみられる。明治十九年大改築が行われる。同二十二年八月十九日古今未曽有の大洪水にて、社殿を浸し拝殿玉垣悉く流失。同二十五年社地を高台に積上げ湊川神社様式を倣い再建遷宮する。同四十二年一月二十五日午前一時放火により本殿消失。同年二月十五日仮殿落成御神璽を奉遷。大正四年一月十五日午後九時三十分放火の為に再度の消失をみる。大正四年十一月仮殿を造り爾来そのままの姿で現在に及ぶ。大正四年十一月三日午前八時地下約一尺八寸の所から桜花双雀鏡、桜花双鳥鏡など六面槍一本刀剣十二振りを発掘する。現在国立博物館所蔵、同年十一月三日午前八時にも神鐘五面、破片二枚、刀剣十一振、槍一本を発掘、同年十一月五日南部警察分署に届け出す。平安末期の経箱と共に埋めたものなりと鑑定。昭和二十八年七月十八日大水害により、社務所、長床水没するも流失はまぬがれる。 |
神社・お寺情報 | |
例祭日 | 11月第1日曜日 |
神紋・寺紋 | 未登録 |
更新情報 | 【
最終
更新者】nnchann 【 最終 更新日時】2025/01/11 22:38:33 |