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基本情報
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| 住所 | 埼玉県秩父市下宮地町25-29 |
| 五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
| アクセス | 秩父本線大野原 徒歩3分 |
| 御朱印授与時間 | |
| 電話番号 | 0494224021 |
| FAX番号 | 0494235077 |
| 公式サイトURL | http://www.chichibu.ne.jp/~kokenzi/ |
| 御本尊 | 釈迦牟尼佛 |
| 宗派 | 曹洞宗 |
| 創建・建立 | 明徳2年(1391) |
| 由来 | 境内掲示板
広見寺の沿革 当広見寺は大林山と号し明徳二年(一三九一)室町時代初期、天光良産禅師によって開創された秩父曹洞宗発祥の禅刹である。その後、戦国時代にかけて、現在の秩父市を中心に横瀬町、荒川村に教線を拡張し、末寺三十余ヶ寺を開き、準叢林の格式を確立した。ところが、永禄から元亀年間(一五七〇年頃)にかけて、甲斐の武田信玄の秩父侵入に遭い、全山尽く灰燼に帰した。しかし、逸速く復興され、天正十九年(一五九一)には、徳川家康公の関東入府に伴い御朱印十石を賜り、大いに曹洞の宗風を宣揚した。 江戸時代享保年間(一七二〇年頃)、十四世禅棟和尚は三十年間の長きにわたり住持を務め、僧堂は雲水で充満し、江戸時代発展の基を築いた。享保十八年には不慮の火災にみまわれ全伽藍を消失するが、六年後の元文元年には凡てを旧に復し、後を十五世春明和尚に託し、静岡の大刹可睡斎へ昇住した。禅棟和尚の著わした当寺の歴史書「広見寺記」は、寺宝として現存している。明和年間(一七六〇年頃)には十八世大量和尚が住し、新潟観音庵々主宗龍和尚と共に百日間の大般若祈祷会を修行し、民衆の救済を図った。境内西の岩窟内には、当時参集した善男善女によって写経された数千の川原石が納められており、現在「広見寺石経蔵」として県の史跡に指定されている。また、同時代には、大本山総持寺内洞川庵に十七世雲蓋和尚、二十世天隆和尚、二十五世鐵山和尚の三師が昇生され、大本山の護持発展に寄与された。 明治時代になり、政府の排仏毀釈政策により多くの末寺が廃寺に追い込まれ、その数が半減するという大打撃を受けた。大正二年(一九一三)には、再び災禍にあい総門を除く諸堂を焼失した。その後、三十世大宏和尚は、檀信徒の協力を得て復旧に努め、大正七年本堂、昭和十二年大書院、二十四年鐘楼堂、三十年開山堂兼位牌堂、五十七年小書院(現住職代)と次々に再建し、内外を整備して現在の景観を呈するに至った。 宗旨曹洞宗 本尊釈迦牟尼仏 本山 永平寺 福井県 総持寺 神奈川県 本寺 正法寺 岩手県 文化財 石経蔵 県指定 五本松 市指定 寺宝 月泉禅師伝衣 広見寺記 昭和六十三年正月吉祥日 当山三十一世守德大謙代 新編武藏風土記稿 秩父郡大宮鄕 廣見寺 宮地ニアリ 大林山ト號ス 曹洞宗奧州江刺郡黑石村正法寺末ナリ 天正十九年十石ノ御朱印ヲタマフ 本尊釋迦彌勒阿彌陀ヲ安ス 開山天光良產禪師明德二年ニ此寺ヲ創建セリ 入寂ノ年月ハ詳ナラス コノ寺ニ門前百姓四軒 末寺三十六 檀家三百餘アリ 惣門 樓門 樓上ニ十六羅漢ヲ安ス 回廊 本堂ノ左右ニ連ネテ 都合廿一間餘 本堂 七間ニ七間半 庫裡 方丈 書院 開山堂 禪堂 衆寮 鐘樓堂 寶形作リ 妙見 白山 稻荷 以上三社合殿コレヲ鎭守トス 秋葉社 辨天社 天神社 山神社 觀音堂 石室 大般若經ヲ石ニ書寫シテ納ル所ナリ 寺後ノ山下ニ巨岩ヲ穿テ 洞穴ノ如ク掘リシ穴ナリ 入口凡一間 奧ヘ八九尺許 |
| 神社・お寺情報 | 秩父願い石巡礼、二番石所です。勝負のカーネリアンという石が用意してあります。
境内碑 三門再建記念碑 当廣見寺は 今から凡そ六百年前 明徳二年(一三九一)本寺岩手県水沢市正法寺二祖月泉良印禅師の高弟 天光良産禅師によって開かれた秩父曹洞宗発祥の寺である その後 二世東雄朔方大和尚 三世端山守的大和尚が進住し秩父市を中心として横瀬町 荒川村に多くの末寺を開き 末寺孫末寺合わせて四十ヶ寺という廣見寺教団の基を築いた しかし この六百年の歴史は ただ平坦なものではなく 多くの荒波を潜り今日に至っている 戦国時代武田軍の兵火 吉田町清泉寺への従属 享保十八年の大火 明治維新の廃仏毀釈 大正二年の火災 そして戦後の農地解放と寺の基盤を揺るがすいくつもの障害を乗り越えて六百年の年輪を刻んできたのである 先の大正二年の大火では 総門を除くすべての伽藍を消失し 長く険しい復興事業が始められたのである 幸いにも 檀信徒の理解を得て 大正七年逸早く本堂が再建され 続いて昭和十二年大書院 同二十四年梵鐘再鋳 同三十三年開山堂兼位牌堂 同五十六年小書院と次つぎ再建され往年の景観を取り戻した 平成時代に入り 俄かに三門再建の気運が高まり 平成六年寺檀協義の結果 三門再建の大事業が開始された 翌年三月第一回建設委員会が開催され 根岸恒一氏を委員長に選出し 二億円余の予算が決定された 同年秋 寄付金勧募が始まり 予定額を大幅に上回る淨財が納された 時恰も平成大不況の折 壇信徒の三門再建の雄志がなければ達成しえなかったであろう 有り難き哉 同九年十月上棟式 十年六月仁王尊搬入と着々と工事は進められ 十月三門はめでたく完成した そして 同十一年十一月二十一日 大本山総持寺貫首板橋興宗禅師を大導師に迎え 壇信徒歓喜の中落慶式が挙行された この三門は 前住職正法寺五十七世山主大謙大和尚によって「飛龍門」と名付けられた 廣見寺の開山縁起に 良産禅師が妙見菩薩の化身である龍を化導し 龍はその御礼にこの寺の敷地を寄進し 永遠に寺を護持すると言って 荒川の淵に飛び去ったという話があり そこから命名されたものである 三門が再建され 境内も寺の景観も一新し 往年の雄姿を取り戻すことができた これからはこの貴重な伽藍を護持し檀信徒の心のよすがとなるべく精進努力していく決意である 終わりに この三門再建事業に関わった多くの方々に心より感謝を申し上げ記念の言葉とする 平成十一年十一月吉日 廣見寺三十二世 智徳廣文謹識 境内掲示板 秩父市指定有形文化財(歴史資料) 袈裟(本寺正法寺第二世月泉良印禅師伝衣)一肩 廣見寺は、岩手県奥州市にある正法寺の二世月泉良印禅師の高弟である天光良産禅師が、明徳二年(一三九一)に開創したと伝えられる古刹です。 この袈裟は、幅三三五x丈一二四cm、紺地牡丹唐草に木瓜龍文金蘭の九条袈裟で、文禄二年(一五九三)に廣見寺が吉田の清泉寺の末寺となるが、延享三年(一七四六)に正法寺への帰属がかない、その証として送られた。 江戸時代の本末制度下、秩父の仏教史上で貴重な歴史資料である。 平成二十年三月 所有者 宗教法人廣見寺 秩父市教育委員会 境内掲示板 秩父市指定有形民俗文化財 廣見寺本堂額縁(元下郷笠鉾万燈)一面 所在地 秩父市下宮地町二五番二九号 指定年月日 平成十五年一月二十四日 明治二十九年(一八九六)下郷笠鉾は、三層の花笠、万燈等を付した秩父地方最大の笠鉾として完成した。大正三年(一九一四)の電線架設に伴い、大正六年から現在の二層の屋型で曳行することになった。 笠鉾の部品は払い下げられたが、万燈は昭和十五年に当寺の檀家から「覺皇殿」と刻まれた扁額として奉納された。額縁は、一六九cm ×九四・五cm、桐材に「波に千鳥」の彩色で笠鉾の変遷を知る上で貴重な資料である。 平成二十年三月 所有者 宗教法人廣見寺 秩父市教育委員会 境内掲示板 妙見山(武甲山)遥拜所由来 秩父妙見信仰は、平安時代中期の武士・平良文にはじまります。良文は、群馬県染谷川の戦で妙見菩薩に助けられ、以来妙見菩薩を信仰したと言われています。良文の秩父移住に伴い、妙見菩薩が招来されました。 初め、県立旧東高校東側の通称「音窪」の地に鎮座したといわれています。その後、遷座し宮地平野に妙見宮が建てられました。宮地の地名の起りです。 この宮地妙見宮の場所は特定されていませんが、廣見寺敷地内が最有力地と考えます。それは、真南に妙見山を遥拝する事ができ、尚、山を背にできる所は唯一此処しかなく、また、妙見山の真北には北極星を望むことができる最勝の地であると考えるからです。その後、嘉禎元年(一二三五)妙見菩薩は、秩父神社に合祀され、永く秩父の民衆の信仰を集めました。 近代になり、妙見山は、石灰岩採掘の山となり、無惨な山容を晒すこととなりました。しかし、その姿こそ、身を削り、秩父の経済を潤してくれた菩薩そのものなのです。私達秩父人は、あらためてこの山の存在の大きさを認識し、尊崇の念を持って生活していくべきと考えます。 平成二十九年三月一日 廣見寺三十二世智徳廣文啓白 |
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最終
更新者】thonglor17 【 最終 更新日時】2026/07/25 21:29:25 |






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