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基本情報
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住所 |
埼玉県神川町大字矢納1273-2 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
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御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0495-72-3294 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
大山祇命 |
創建・建立 |
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由来 |
境内掲示板1
第62回伊勢神宮式年遷宮記念
城峯神社 御由緒
ロ御縁起(歴史)
神川町矢納一二七三-二
矢納の地は、北の群馬県境を神流川が限り、南端に城峯山(一〇三七・七メートル)、中央北部に神山(七三ニメートル)がそびえる。当社は神山の中腹(四八〇メートル)に鎮座しており、神山の頂には奥宮が祀られている。
社伝によれば、景行天皇の四十一年、日本武尊東征の折、この山の非凡なのを見て登り、自ら山嶺に失を納めて大山祇命を祭り、はるか大和国の畝傍山にある神武天皇陵を拝して賊徒平定を奉告した。尊が矢を納めたので「矢奈布」と呼び、のち失納に改めたといい、また尊は高峰の頂に霊畤(祭場)を設け「加美屋満」と名付けたが、これがのちに「神山」と称するようになったという。天慶三年(九四〇)平将門の弟将平が当山に矢納城を築いて反旗を翻した時、藤原秀郷は勅命を奉じて討伐に向かい、賊徒平定を祈願し、乱が治まって後、厚く祭祀を行い、「城峯」の社号を付し、山頂に城峯奥宮を創立した。社殿は二度の焼失に遭い、正保二年(一六四五)に再建した。元文二年(一七三七)に幕府の命により柚木清太夫が祭祀を司るようになり、明治維新まで柚木家邸内に社殿があったという。
『風土記稿』に当社は「山祇社 城峯山の絶巓にあり、長楽寺持」と記されている。これに見える別当の長楽寺は、光明山明王院と号した真言宗寺院であったが、明治初年に廃寺となった。
当社は、明治五年に村社となり、同十七年には郷社に昇格した。
境内掲示板2
郷社 城峯神社御由緒
埼玉県児玉郡神泉村大字矢納字東神山
鎮座 郷社 城峯神社
由緒 人皇第十ニ代景行天皇の四十一年皇子日本武尊東夷御征討の御帰路この里に到り給い当山に霊畤を設け遥に大和畝火山の皇宗神武天皇の御陵を拝し東夷平定の由を奉告し給い且つ躬ら矢を納めて大山祇命を祭りて一山の守神と崇め給う是れ即ち当山の起源にして当村矢納の地名も此の古に縁由せり。
天慶三年平将門の弟将平矢納城を築きて謀叛せり時に藤原秀郷朝命奉じて討伐に向い山祭神に賊徒平定を祈願し乱治って後厚く祭祀を行い城峯の社号を附せり。
天禄二年本殿を建つ、 文亀五年四月甲州軍秩父新太郎と戦う、明治五年村社に列せらると共に現在の神山に遷宮せらる、 明治十六年四月山火事の為め幣殿並びに社殿を焼失す翌十七年再建す、明治十七年六月十六日郷社に列せらる、大正十三年御神殿を修理する。昭和二十八年四月鳥居を再建す、昭和三十三年御神殿玉垣を造築す、昭和四十五年三月社務所を改築す、昭和五十四年神楽殿を改察す、昭和五十五年四月社前の石段を改修す、昭和五十七年御神殿屋根並びに奥の院の改修工事をなす。 |
神社・お寺情報 |
新編武蔵風土記
秩父郡矢納村
山祇社 城峯山ノ絕巓ニアリ長樂寺持 |
神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】zx14r
【
最終
更新日時】2023/03/05 13:18:32
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