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参拝日:2017年11月19日 00:00
参拝日:2016年7月11日 00:00
参拝日:2020年10月3日 00:00
多くの方が書かれているように、狛犬に巨大マスクが付けられています。良いことなのでしょうが、このような時代になったことに対して少し悲しい気にもさせられます。
★★★★ 参拝日:2020年8月16日 23:23
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(はまちゃんさん)
日付:2022年10月20日 12:49 |
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住所 | 和歌山県田辺市本宮町本宮1110番地 |
五畿八道 令制国 |
南海道 紀伊 |
アクセス | |
御朱印授与時間 | 8:00~17:00 |
電話番号 | 0735-42-0009 |
FAX番号 | 0735-42-0753 |
公式サイトURL | http://www.hongutaisha.jp/ |
御祭神 | 主祭神:家津御子大神(素盞鳴尊) 配祀神:夫須美大神 速玉大神 天照皇大神 「忍穂耳命・瓊々杵命 彦穂々出見命・鷀鸕草葺不合命 軻遇突智命・埴山姫命 弥都波能売命・稚産霊命」 「」内の祭神は大斎原の石祠に合祀 |
創建・建立 | 崇神天皇65年 |
旧社格 | |
由来 | 全国熊野神社の総本宮である熊野三山の一つ。創祀は第十代崇神天皇の御代と伝えられている。 本宮は、紀伊半島を縦断する紀和果無山脈から流れ出る熊野川・音無川・岩田川の合流点の中州である大斎原に古より鎮座していた。 熊野は奈良時代から平安時代にかけて、仏教・密教・修験道の聖地になり、自然崇拝に根ざしていた熊野の神々は仏たちと習合していった。平安時代後期になるとますますその結び付きは強固となり、証誠殿に鎮まる家津御子大神は阿弥陀如来と同一視され、極楽往生を約束した。 平安時代末期から鎌倉時代にかけて熊野への信仰が急速に高まり、法皇・上皇の熊野三山に参拝する熊野御幸は百余度を数えた。彼らが歩いた道が熊野九十九王子を祀る熊野参詣道である。 鎌倉時代になると、熊野御師や熊野先達・熊野比丘尼らによる布教活動によって、武士をはじめとする様々な階層の参拝が盛んになり、その範囲も全国に及び、この群れなす参拝者を称して「蟻の熊野詣」の語が生まれた。 鎌倉新仏教の一派時宗の開祖一遍は熊野の神からの「信不信を選ばず、浄不浄を問わず布教せよ」との託宣を受けて悟りに至ったとされる。江戸時代中期に現在みられる社殿が造築された。しかし、明治時代の熊野川の大洪水によって、社殿の大部分が流失したため、十二社のうち上四社を西の丘陵に遷座し、中四社・下四社の神々を大斎原の石祠に合祀した。 平成十六年七月熊野・吉野・高野の霊場及びこれを巡る参詣道は世界文化遺産に登録された。(例祭)年中行事多き中に四月十三日同十五日を大祭とす。社伝に「一山本宮始め社家社人一統、湯峯にて潔斎神が降られた様を再現し五穀豊穣を願う、四月十三日から十五日にかけて行われる春祭。 十三日午前湯峯神事。神職・楽人・稚児らが湯峯温泉で潔斎・斎食をした後、大日山を越えて湯峯王子社・月見岡神社と巡拝する行事。夕刻宮渡神事。神職・稚児・付人・総代らが行列を組み、神歌を唄いながら本社大斎原真名井社と巡拝する行事。 十五日午前本殿祭。午後から渡御祭。「遷御祭」の後、神輿を中心に神職・修験者・舞巫女・稚児らが挑花を奉じ、真名井社での祭典を経て、大斎原にて大和舞・巫女舞・御田植神事などを奉納する中「斎庭神事」、続いて修験者による護摩焚きの後、本社にて「還御祭」。 なお、本殿祭を除く祭典の終盤において、楽人の笛や太鼓の演奏の中、総代の「あがりやそう」「さがりやそう」という掛け声と共に、稚児(二、三歳の男子)たちが左三回・右三回・左三回と廻る「八撥神事」が執り行われる。 これは四月十三日に湯峯温泉で潔斎をした稚児に、熊野の神たちが宿った様子を表現したものといわれている。 |
神社・お寺情報 | 札所:神仏霊場巡拝の道・第4番
(和歌山第4番) |
例祭日 | |
神紋・寺紋 | 未登録 |
更新情報 | 【
最終
更新者】カツ 【 最終 更新日時】2023/10/07 21:53:35 |