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基本情報
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住所 |
和歌山県新宮市相賀186 |
五畿八道 令制国 |
南海道 紀伊 |
アクセス |
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御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0597-85-3586(木本神社) |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
誉田別天皇 |
創建・建立 |
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旧社格 |
村社 |
由来 |
当社の社伝によると、 当社は大職冠内大臣鎌足公後胤、信州上田の領主信濃守藤原光共長子上田太郎助が王子(今の裏の平)へ居住した折、和田、高目、田中の三氏も当地に居住す、四氏申合せで、字番峪へ勧請す。是則ち人皇四十代の時と古老の口伝なりとある。 天明八(一七八八)年に至りて現在の地に遷座し、明治六年四月村社に列す。江戸時代天保年間(一八三〇四四)に編纂された紀伊続風土記には、当社の鎮座する現在の新宮市大字相賀は、「浅里郷・相賀村」で、北桧杖村の西にあり、同村より當村の小名瀬原に至り、瀬原より西の方川を隔てて十八町余、大川の左に本村あり、高田川の溪に添ふ、當村舊は浅里村の中なりしに、元禄以後別れて一村となる。土人いふ村中川辺に桑の木多く、古は大木ありしより大桑といひしに、訛りてあふかと唱へ、終に相賀の字を用ふとぞとあり、村名の由来を記している。この村中には、「小堂一字」として、寺があったのは記しているが、氏神社は記していない。 天保年間の紀伊続風土記より六十年ばかり前の記録である明和寛政頃(一七六四八九)の新宮頒分見聞記には、「此所昔、寺あり、今は絶えたり。浅里村に付く。」とあり、ここにも氏神社が記されていない。 同じ紀伊続風土記によると、相賀村は、浅里村枝郷とされており、熊野川対岸の浅里村の産土神である「八幡宮」を相賀村も産土神としていたのかと思われる。尚、相賀村の小名瀬原は、熊野川の対岸にあり、紀伊続風土記には、浅里村の産土神の「八幡宮」なりとしている。和歌山県の地名には、「続風土記は村内社寺として小堂一を記す」として、小堂は、神社及び寺であると解釈している。 東牟婁郡誌所収の明治六年調神社の中には、相賀村に八幡社とある。 |
神社・お寺情報 |
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例祭日 |
11月3日 |
神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】天地悠久
【
最終
更新日時】2020/11/13 18:43:36
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