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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
山口県防府市惣社町6番2号 |
五畿八道 令制国 |
山陽道 周防 |
アクセス |
JR山陽本線防府 徒歩19分 |
御朱印授与時間 |
|
電話番号 |
0835-22-3268 |
FAX番号 |
0835-22-3268 |
公式サイトURL |
|
御祭神 |
【主祭神】
天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
【配祀神】
須佐之男命(すさのおのみこと)
三穂津姫命(みほつひめのかみ)
級長津彦命(しなつひこのみこと)
級長津姫命(しなつひめのみこと)
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
表筒男命(うわつつのおのみこと)
中筒男命(なかつつのおのみこと)
底筒男命(そこつつのおのみこと)
大巳貴神(おおなむちのかみ)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
健御名方命(たけみなかたのみこと)
武甕槌命(たけみかつちのみこと)
経津主命(ふつぬしのみこと)
田心姫命(たごりひめのみこと)
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)
豊玉彦命(とよたまひこのみこと)
保食命(うけもちのみこと)
水分神(みくまりのかみ)
大山咋神(おおやまくいのかみ)
応神天皇(おうじんてんのう)
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう) |
創建・建立 |
不詳 |
旧社格 |
県社 |
由来 |
【頒布】佐波神社の由緒
佐波神社は明治40(1907)年6月3日、金切神社(字総社・氏子60戸)、勝間神社(字勝間・氏子68戸)国庁八幡宮(字国衝・氏子58戸)、日吉神社(字多々良南明庵・氏子25戸)の4社が合併し、金切神社に合祀されて当時の地名、佐波郡大字東佐波令に因んで佐波神社と改称したのが創建の謂れです。
明治維新によって成立した新政府は祭政一致の布告を発令して、全国のすべての神社および神職を国の神祇官の管轄下におき、神道国教化の方針を示しました。
そして神仏分離令が発せられ、神仏習合の廃止と廃仏毀釈が行われたのです。
その後、明治4(1871)年の太政官布告によって神社の祭神と称号を正し、社格の制度化をすすめ、氏子が少なく神社の維持や尊厳が保てない小社は合併して資産を増やすなどの対策がたてられました。
さらに、明治37(1904)年の日露戦争によって財政難に陥った明治政府は、一層神社の整理を推し進め、佐波神社が誕生したのです。
大正11(1922)年には県社に昇格しましたが、これによって市内では周防一ノ宮の国幣中社・玉祖神社に次ぐ社格となりました。
平成18(2006)年には、合祀百年大祭が盛大に執り行われ、氏子の皆様の浄財によって社殿の改修などの記念事業がなされました。
〖金切(カナキリ)神社〗俗称・金切宮
創建の年次は詳しく分かりませんが、社伝によれば第14代仲哀天皇と神功皇后が熊襲ご親征の時、当地において戦勝祈願のため諸神を祀られ、その後の三韓征伐に際しても、神功皇后自ら斎主となって神祇を祀られてご出征なさり、無事朝鮮半島の平定を成就されました。
三韓は当地より戊亥の方角になり、陰陽五行説では金位の方に当たるので、それを切り平らげたという意味から金切宮と称すようになったと伝えられています。
今から凡そ1600年前のことです。
古代、中央から派遣されてきた国司は、国内の主要な神社を巡拝しなければならないという慣わしがありました。
しかし,それには多くの日数や費用がかかりますので、国内の主なご祭神を一社にまとめて合祀し、その神社にだけ参拝するよう簡略化されました。
そのような神社を総社あるいは惣社といいますが、周防の国は金切宮を惣社としました。
防府に国府が設けられた頃のことですが、爾来、代々の国司や藩主の崇敬が厚い古社でした。
当初は現在地よりも東南、毛利邸の入り口にあたる高畠という国衙の域内にありましたが、平安時代の中期に現在地に遷されたと伝えられています。
境内入り口大鳥居傍の「金切宮の碑」は江戸時代後期の弘化4年(1847)に建てられたもので、表には由緒が、裏面には世話人として惣社2名・国衙3名・都浜3名の名が記されています。
これによって、金切宮が単に字惣社の氏神としてではなく、国府が衰退した後も、国衙を中心とした広い地域の産土神として信仰されていたことが分かります。
御祭神は、伊勢神宮に祀られている皇室の祖神・天照皇大神(アマテラスオオミカミ)をはじめ、その弟神でヤマタノオロチ退治で知られる須佐之男命(スサノオノミコト)など十四柱の尊い神さまをお祀りしています。
かしこきや から国むけて たらし姫
いはひましける 金切乃神(石碑文中)
注・たらし姫…神功皇后
〖勝間(カツマ)神社〗俗称・浜ノ宮
御祭神は、市杵嶋姫命(イチキシマヒメノミコト)を始め、海を鎮める神さまなど八柱。
第12代景行天皇、熊襲ご親征のとき祀られたと伝えられています。
周防の国の政治の中心であった国府には、都からの役人や物資の往来が盛んで、国府の南にあった港「勝間の浦」は古くからの海路の要衝でした。
そのため勝間神社は国府の守護神として信仰されていましたが、安永5年(1776)に勝間開作が築造されたとき、藩主・毛利秀就公は浜ノ宮を『防府惣鎮守』として称えよと命じ、その造営にかかる費用を藩から支給しました。
それほど崇敬され、篤く保護された神社でした。
社殿は茅葺、本殿は檜皮葺きの落ち着いた社だったと伝えられています。
「枕草子」で有名な平安時代の女性作家清少納言の父清原元輔は、天延2年(974)に周防国司となりましたが、勝間の駅で「思ひいでよ 千年のはるの けふごとに 勝間の浦の 岸のひめ松」と詠んでいます。
〖国庁(コクチョウ)八幡宮〗俗称・衙頭八幡
天平勝宝3年(751)国衙の守護神として、奈良東大寺の鎮守である大和国・手向山八幡宮より御分霊を勧請したと伝えられています。
国庁寺の南(今の東林寺の北)に鎮座しており、現在は「国庁八幡宮跡」の記念石だけが残っています。
手向山八幡宮は天平勝宝元(749)年に宇佐八幡宮より東大寺の鎮守として勧請したものですが、東大寺は大和の国分寺であるとともに、日本国の総国分寺とも言われていたので、周防国の国分寺もこれに倣って手向山八幡宮を勧請したのであろうと考えられます。
国衙跡に残る国庁碑は、もとは八幡宮の境内にあったものですが、合併後に現在地に移築されました。
往時は樹齢5百年を重ねた老松が50本余、境内に聳え立っていましたが、これも全て伐採されてしまいました。
御祭神は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を始め六柱です。
〖日吉(ヒエ)神社〗俗称・山王社
周防国分寺の守護社として、国司重源上人が滋賀県大津市の日吉神社から勧請したとされています。
かつては多々良の梛原(なぎはら・現在の毛利邸の北)にありましたが、明治31(1898)年に毛利邸新築のために多々良の北東、南明庵に移転しました。
それから僅か9年後、政府によって合併を余儀なくされました。
御祭神は、大山咋神(おおやまくいのかみ・全国的に日吉神社の主神)と、大巳貴神(おおなむちのかみ・大国主命)の二柱です。
4社ともに、それぞれ由緒ある神社でした。
毎日手を合わせてお参りした氏神様が廃社となった、当時の氏子の人達の心中を思うと胸が痛みますが、時世によって佐波神社が誕生して、すでに百年以上が経ちました。
現代に生きる私共は、永い時代の歴史を重ねてきたこのお宮を、後世に残し伝えていきたいと存じます。
佐波神社は、二十四柱もの御祭神を祀る総社ですから、その御神徳は厳島信仰(国家鎮護・海上安全)、出雲信仰(国土安泰・縁結び)、八幡信仰(武運長久・家内安全)、山王信仰(山水守護)、稲荷信仰(五穀豊穣・商売繁盛)、住吉信仰(航海安全・和歌)、祇園信仰(疫病・厄除け)、塩竈信仰(安産・製塩)などの幅広い分野に渉ります。
家内安全祈願・交通安全祈願・厄除け祈願・初宮詣・地鎮祭などの諸祈願は随時お受けしていますので、社務所までご連絡下さい。
佐波神社社務所
惣社町6の3 ☎22-3268
《年中恒例の神事》
春祭り 4月2日
桜まつり 4月第1または第2日曜日
秋祭り 10月第2土曜日
(御神幸祭・浜ノ宮お旅所神事) |
神社・お寺情報 |
周防国総社 |
例祭日 |
4月2日 例祭 |
神紋・寺紋 |
十二日足
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更新情報 |
【
最終
更新者】龍太郎
【
最終
更新日時】2019/07/01 22:56:28
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