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基本情報
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住所 |
埼玉県北葛飾郡杉戸町大字佐左エ門1294 |
五畿八道 令制国 |
東海道 下総 |
アクセス |
東武伊勢崎線東武動物公園 徒歩11分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0480382452 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御本尊 |
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宗派 |
真言宗智山派 |
創建・建立 |
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由来 |
境内掲示板
佐左ェ門開拓と松田寺
所在地 杉戸町大字佐左ェ門一二九四
杉戸町大字佐左ェ門一帯の開拓は、松田佐左衛門一族によって始められ、その後これに協力する人々の尽力によって新田方面(佐左ェ門の南側)の開拓も行われたものであると言われている。新編武蔵風土記稿には、「佐左ェ門村は、村民喜六が先祖の伯父を松田佐左衛門を号する時は、彼が開闢せし村なるにや、喜六の許に所持せる寛永十八年(一六四一)田地譲渡の券書にその名をのす、民戸九十四、東西凡二十五町、南北三十五町許、東は廣戸沼村、南は並塚村、西は安戸村、北は遠野村なり」と記され、佐左ェ門という地名は、この地の開拓者松田佐左衛門の名によるものと推定される。
佐左衛門は、北条家の家臣松田左京亮康吉の次男で信光と称し、初め上州三の倉に住んでいたが、のちに兄松田喜左衛門の家系の者と、慶長中期から末期ごろ(一六〇五~一四)帰農し、当時低湿地で荒地であった土地を開墾し水田耕作をすすめた。慶安三年(一六五〇)七月佐左衛門は没したが、その長男、六郎右衛門重光は、先代の遺志を継ぎ、土地の人人に開拓をすすめた。風土記稿にある喜六は、佐左衛門の兄松田喜左衛門の系統のもので、佐左ェ門新田の開拓に従事したものであろう。
松田寺は、新義真言宗、山城国(京都府)醍醐報恩院の末寺(現在は真言宗智山派)で、醫王山金剛乗院と号し、これら松田一族の菩提寺として佐左衛門が開基したものである。佐左衛門らの墓が本堂前にある。
昭和六十二年三月
杉戸町
新編武藏風土記稿
葛飾郡佐左衞門村
松田寺 新義眞言宗山城國醍醐報恩院末 醫王山金剛院ト號ス 本尊彌陀ノ立像ヲ安ス 按ニ村民喜六ハ松田氏ナリ 恐ラクハ松田氏ノ開基ニシテ氏ヲ寺號ニ用ヒシナラン 開闢ノ年代ハ傳ヘス 鐘樓 元祿年中鑄造ノ鐘ヲカク |
神社・お寺情報 |
鐘銘
當山鐘楼堂は元禄七年十月四世智海法印代に鋳造建立したが 寛政九年五月十世文英法印代に御堂を再建 十六世浄賢代に補修を加えた 昭和十八年太平洋戦争に供出したので この度檀信徒の浄財を得て悲願成就具足するに至る
境内碑
松田寺開基佐々エ門開闢
松田佐々衞門信光の墓
北條家の家臣松田左京亮康吉の二男松田佐々衛門信光は慶長年間刀をすてゝ兄松田喜左衛門及家来数人と共にこの地に来り菩提寺として当山を開基し荒地を開墾して水田耕作をすすめ慶安三年七月十三日没す(三百三十五年前)
法号は光徳院殿瓘輪宗貞大居士を贈られた
二代松田六郎左衛門重光は先代の遺志をつぎ当地の人々に開拓をすすめ延宝六年三月十二日五十才にて没す。三代松田七郎左衛門光治は時の幸手領主により江戸に追放されたと伝えられている。初代信光の妻は秋林妙桂禅定尼の法号を贈られ明歴四年七月三十日没している。
尚初代住職は宥勢法印であつたが開基当時の本堂は焼失し宝永三年五月四代智秀法印代に建造された。その後大正十二年の大震災の被害を受けたので十八世隆寛代に改築計画をすすめ壇信徒の浄財を受けたが太平洋戦争のために中止し昭和三十一年十二月隆光代に現本堂、昭和四十二年九月庫裡の改築をした。
昭和五十九年十一月
第十九世 隆光僧正誌 |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2025/08/10 18:48:06
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