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★★★★★ 参拝日:2017年11月12日 00:00
★★★★★ 参拝日:2023年12月11日 09:30
社殿後ろに銀杏の御神木。元々十騎の墳墓が有った場所との事で強い御神気を感じます。 十寄神社→新田神社の順に参拝すると願い事が叶うとされてるそうですが、見事逆に参拝しました〜😱
★★★ 参拝日:2023年4月11日 08:50
✍️御朱印は書き入れして頂けます⭕️ 徳持神社で頂けます
★★ 参拝日:2018年10月25日 12:16
社務所は向かって右側にあるが、御朱印は徳持神社にて。
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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 | 東京都大田区矢口2-17-28 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス | 東急多摩川線武蔵新田 徒歩6分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | |
FAX番号 | |
公式サイトURL | http://tokumochi-jinja.tokyo-jinjacho.or.jp/keidai00.html |
御祭神 | 新田義興とともに謀殺された従者たち
新田義興命(にったよしおきのみこと) 世良田右馬助義周命(せらたうまのすけよしちかのみこと) 井伊弾正左衛門直秀命(いいだんじょうざえもんなおひでのみこと) 大嶋周防守義遠命(おおしますおうのかみよしとおのみこと) 由良兵庫助命(ゆらひょうごのすけのみこと) 由良新左衛門命(ゆらしんざえもんのみこと) 新藤孫六左衛門命(しんどうまごろくざえもんのみこと) 堺壱岐権守命(さかいいきごんのかみのみこと) 土肥三郎左衛門命(どひさぶろうざえもんのみこと) 南瀬口六郎命(なせぐちろくろうのみこと) 市河五郎命(いちかわごろうのみこと) |
創建・建立 | 正平13年(1358年)の討死後まもなく |
旧社格 | |
由来 | 南北朝時代の1352(正平7)年2月15日、足利尊氏追討のため宗良親王を奉じ弟の義宗、従兄弟の脇屋義治らと挙兵した南朝方の武将・新田義興公に祭神らも従って人見原(府中市)・金井原(小金井市)での合戦を経て、鎌倉を一時占拠するにいたる。(武蔵野合戦)
1358(正平13)年4月30日に足利尊氏が死去すると、新田勢を恐れていた初代鎌倉公方・足利基氏と足利幕府関東執事(関東管領)・畠山国清は義興公の謀殺を企て、武蔵野合戦で義興公に従った竹沢右京亮、江戸遠江守、江戸下野守に命じた。 竹沢は養女・少将局を側女として献じ、また江戸遠江守は所領没収の罪科に処されたと鎌倉方との関係悪化を偽装して義興公に近づく。 1358(正平13)年10月10日、江戸らの誘いに応じた義興公は鎌倉に向うため、多摩川・矢口の渡し舟に乗った。 舟には穴が開けられており、川上で浸水しはじめる中で両岸より矢を射かけられ、謀略にかかったことを察した義興公は自刃、家臣らは互いに刺しちがえたり、対岸の敵陣に切り込み憤死した。 その後村老らが墳墓を築き、社祠を興して義興公の士族および近習の将兵10名が祀られるようになった。 ※祭神として祀られていないが、自刃戦死者として大島兵庫頭義世・松田與市・宍道孫七・堀口義満の名が残されている(境内掲示より)。 十騎(じゅっき・じっき)明神・十時明神・十騎社などと称されたが、何時からか十寄と書いて「とよせ」の呼称が用いられるようになったという。 江戸時代、まず当社へ参拝した後に新田神社で願掛けを行うと願いが叶うとされ、大いに栄えた。 1945(昭和20)年5月の戦災で社殿を焼失後、1953(昭和28)年に瓦葺権現造にて木造の旧社殿が再建された。 その後、1988(昭和55)年10月に現社殿へ造替されている。 |
神社・お寺情報 | 1358年(正平13年)の新田義興主従の討死後まもなく創建された。彼らは「十騎明神」と呼ばれて、彼らを葬ったとされる「十騎明神塚」があったという。
主君・新田義興を祀る新田神社に参拝するときは、まず当社に詣でて、主君にとりなしてもらうようにしなければならない、という言い伝えがある。 |
例祭日 | 4月10日:春大祭 10月10日:例大祭 |
神紋・寺紋 | ![]() |
更新情報 | 【
最終
更新者】バルバロッサ 【 最終 更新日時】2025/05/03 11:20:56 |