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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県所沢市山口710-1 |
五畿八道 令制国 |
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アクセス |
西武狭山線下山口 徒歩11分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
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FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
市杵島姫尊 |
創建・建立 |
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旧社格 |
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由来 |
社頭掲示
武蔵国武州入間郡山口郷岩崎村鎮座
岩崎弁財天縁起
令和4年2月1日編纂
鎮座の地
岩崎弁財天は所沢市大字山口字弁天前710番地
弁天池の中心に鎮座しております。
柳瀬川の支流六ッ家川は、北野の藤森稲荷神社南約200メートルの精進場周辺と北打越を水源とし広谷で合流し坪呂沢地区で蛇行して池となり自然に中州状になった土地と考えられます。
西側はすっかり変わってしまいましたが、ここも一面の池でアシやマコモが、生い茂り、その茂みの中にクイナやカモが巣作りしていたのも遠い昔ではありませんし、終戦前はこの池の周囲の土地をトラックがわりにして青年団が運動の練習に汗を流したものです。
ここの一部が埋め立てられて昭和四十二年四月市立山口保育園が開園しました。
又、この辺は旗本宇佐美助右衛門が知行(天正十八年1590)した当時すでに畑が少なく田多く民戸68軒と記録されている(所沢市民俗文化財編纂資料により)更に南200メートルにも笠池があり二カ所とも水田の引水池として利用されていたもと思料されます。【最近まで、所沢市立泉小学校周辺一帯は水田でした。】
昭和七年山口尋常高等小学校が学童の社会教育として調べたとき168戸昭和四十六年頃より宅地造成が始まり現在では約3000戸となっております。
二つの池では昭和四十七年頃まで子供達が鯉や・クチボソ等の雑魚を釣り遊んでいました。
笠池があった所(現在岩崎上町自治会館)の片隅に、現在も石橋供養塔に武州入間郡山口領岩崎村と刻まれた石塔(寛永八年1632)が建っている。
岩崎三郷即ち上組(現上町)中組(現中町)下組(現下町)の部落三井・山口二号・三号・四号・春の台・町田・坪呂沢・膳棚・梨の木戸から成り立ち明治八年数村が合併して山口村となりました。
保育園も含む鎮座の地一帯は岩崎村の共有地でやがて山口村の公有地になっています。
今は市名である【所沢】の旧町地区も昔は山口領所沢村でした。
岩崎弁財天の由来
久米の永源寺末寺として祥雲山瑞岩寺が開山(天正元年1573)、まもなく寺持ちしました。
又、岩崎三郷にはそれぞれ産土神(うぶすながみ)がありました。武蔵国武州入間郡山口領岩崎村の惣村鎮守として上組(現上町)水神社(現弁財天社の場所) 中組(現中町)氷川社(現西武狭山線陸橋南30メートル西側池之谷家の祠) 下組(現下町)氷川社(現西武狭山線踏切南荒久314高橋家の祠)三社とも総ケヤキ造りでした。
また、慶長一九年(1614)大阪冬の陣に地頭(旗本)宇佐美助右衛門が出陣し、戦勝したことを祝い獅子頭を求め、師匠も連れて凱旋し、岩崎の若者に習わせた獅子舞が、寛永元年(1848)産土神(うぶすながみ)三社の神前で八月十五日行われた事が、岩崎村神社書上帳(大国魂神社)に記録(明治二年一〇月1869)されている。
水神社には七福神ただ一人の女神(弁天様)がお祭りされており、ご祭神は市杵島姫尊(イチキシマヒメノミコト)です。
明治の末、合社令によって山口地区の氏神中氷川神社に合社されました。しかし大正四年、三社とも現在の弁財天社の場所にお移りいただきました。越えて昭和三十年、三社を合祀して社殿を改築、昭和三十二年には岩崎連合町内会の総意により『弁天講』として三町内会の役員が、神社の管理を講によって行うようになりました。
更に、昭和三十八初代総代岸一万氏のとき講を代表して安芸の宮島、厳島神社に参拝、ご祭神市杵島姫尊(イチキシマヒ メノミコト)のご分霊を改めて拝受して、岩崎三郷の氏神としてお祭り申し上げました。
越えて、昭和五十七年十月十七日三代目総代黒田昇氏のとき再度社殿を改築現在にいたる。
又、二代目総代柳下豊次氏は長年親交があった台湾の実業家石振楠氏から樹齢二〇〇年のケヤキの神木で台湾の有名な彫刻家、刻家有氏が彫り上げた、高さ六十五センチの弁天像(琵琶を抱えた座像)が贈られ、昭和六十一年十月十日弁天像の入魂式をして奉納した。
信仰の歴史
厳島神社は延喜式(後醍醐天皇の命によって西暦927年に完成した法令集)にも載っている古い神社で、平家一門の信仰が厚かったことでも知られていますが、その末社は弁財天又は弁天として祭られています。
ご祭神のイチキシマヒメノミコト(古事記によればまたの御名をサヨリヒメノミコト)はスサノオノミコトの御女で、海の女神として航海の守護神、技芸の神・子育ての福徳の神として信仰がありますが、事実各地の弁財天が水辺に祭られているのは、前者の名残でしょう。
岩崎弁財天と呼ばれるようになったのはいつの世なのか残念ながらわかりません。
しかし境内にあって所沢市保護樹木にされたヒイラギの巨木は、根本の状況から優に数百年はたっているものと思われます。(平成二十六年二月十六日雪重で折木・枯木となり平成三十年十二月二日伐採)
そこで、この際少し大胆に推理をしてみますと、前記中氷川神社(厳島神社同様延喜式所載なので千年以上の古社)のご祭神がスサノオノミコトであり弁財天はそのご息女であることから中氷川神社創建まもなく、その氏子である山口領各地に産土神として弁財天が祭られたのではないのでしょうか。
時代が違いすぎて証拠としてはいささか心もとないのですが、前に書いた岩崎中組・岩崎下組の産土神鎮座の土地が、明治四十五年、中氷川神社から池之谷家・高橋家にそれぞれ売り渡され現在にいたる。
いずれにしても、土地っ子は昔から子供が生まれると無事な成長を念じてこの社へお宮参りにつれて行き七五三にはお礼参りをしてきました。度重なる戦の時、故郷をあとにする兵士が武運長久を祈り、無事帰還の日に深々と頭をたれたのもこの神社です。
岩崎三郷の菩提寺祥雲山瑞岩寺で、毎年十月第二土曜日に行われている岩崎簓獅子舞(所沢市民俗無形文化財)はその舞い始めに先立って必ず岩崎弁財天に宮参りしています。
岩崎の人々にとって切っても切れないふるさとである事は確かです。近時周囲の開発によって、昔の静寂は失われようとしておりますが、遠い昔からおわしますこの神社が、いつの世にも栄そしてこれを崇めるすべてを心から祈っている次第です。
岩崎弁財天社保存会 |
神社・お寺情報 |
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例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2022/08/11 21:43:08
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