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基本情報
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住所 |
埼玉県所沢市城537 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
JR武蔵野線東所沢 徒歩21分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
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FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
宇迦之魂神 |
創建・建立 |
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旧社格 |
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由来 |
(城村)
八幡社
村の鎮守なり
別當龍蔵院。八幡免除地の内に住す、修験なり。
愛宕社
城迹の頂上本丸の迹と思しき所にあり、神體は石にて作る、馬上の像なり、本郷村東福寺持。
熊野社
是も城迹の内にて東の方にあり、龍蔵院の持。
天神社
七曲坂の中程にあり、城中の鎮守なりしならんと云り、本郷村東福寺の持。
稲荷社二宇
二社並び建り、龍蔵院の持。
(新編武蔵風土記稿より)
境内碑
城山神社由緒
城山神社は滝の城々址に鎮座 滝の城の起源は遠く治承四年源頼朝挙兵の時土
豪某之に応じ築城に着手其の後北條氏照の支城として再築天正十八年八王子城
落城と共に本城も又運命を共にす 住民復帰後数十年を経て本丸跡に愛宕神社
を創立す
八幡神社は本城鬼門除の鎭守として天正年間の創立寛文十二年十二月四日地頭
貴志氏の再築と梁間に見えたり
天神社は天正の頃城内の鎭守として建設さる
熊野神社は承歴の頃の創立にして往古一村の鎮守なりしが築城後煙滅に帰し慶
長年間再建すと口碑に見えたりと伝う
稲荷神社あり明治四十一年九月二十四日前記の神社を共に愛宕神社に合祀し城
績に名をとりて社号を城山神社と改称す氏子八十戸余
木城は武蔵野の面影をとどめ城址には今も残塁残濠等昔日のまゝに存し風光絶
佳近時訪ずるる者多く明治維新百年の大業を記念し裏参道の拡張新設つゞいて
社務所の建設も終り此度鳥居建設の議起り八幡型一基神明型二基を新に建設す
之れが財源は神社所有地字西ノ上九〇〇番一反五畝十八歩 仝九〇一番一反一
畝四歩 仝九六七番五畝二十八步 稲荷神社所有地字西ノ上八九九番三反四畝
十五步共に山林を売却基本財産及建設の責に当てたり ここに明治維新百年の
大業を記念し神德高揚を祈り一文を記し永遠の記念とす
昭和四四年十一月 城山神社宮司 金子敬輔識す
氏子中
奉納施工者茨城県笠間市稲田
中野組石材工業株式会社 |
神社・お寺情報 |
滝の城址公園に隣接
滝の城の本丸跡に建ちます
少し離れた 天神社 金子宮司宅で、御朱印を戴けます。
境内掲示板
滝の城跡
所在地所沢市城五三七ほか
滝の城は、狭山丘陵の一角が低地に向って落ちる急な崖を利用し、東南方を流れる柳瀬川を防御線とした平山城で、その敷地は約六万六千平方メートルである。
現在でも本丸を中心とした遺構が良く保存されている。本丸は柳瀬川を眼下に見下す城の東南部に位置し、現在の社殿は櫓台跡の上にある。本丸の北西には、空堀をへだてて二の郭的な曲輪があり、城はこの方向にいくつかの曲輪を配したようで、部分的に遺構が残存している。また、大手は、さらに北方に所在していたとみられている。
この滝の城は、北条氏照の持城と考えられ、滝山城(永禄十三年の戦いの後、八王子城に移る)の支城といわれている。
永禄七年(一五六四)の北条氏の清戸番衆交代命令状を見ても、清戸下宿に普所があって固めてあり、城の防備と密接な関係があったと推定される。
天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の小田原城攻略の際、落城したものと考えられている。
大正四年三月三十一日付けで埼玉県指定史跡となっている。
昭和六十年三月
埼玉県
所沢市
境内掲示板
滝の城横穴墓群
昭和五十一年、滝の城跡の土塁の土砂流失を防ぐ保護工事のため、斜面を掘削したところ、人骨とともに金環(きんかん―銅線を環状に整形し金メッキを施した古代のイヤリング)が発見され、工事を一時中止して発掘調査を実施している。
発見された横穴墓は総数で九基を数えるが、東側と西側の未発掘部分にも連続しており、相当数が埋没していると推定される。それぞれの横穴墓は、斜面上の比較的高い位置の標高四十一メートルに沿って構築され、それぞれの間隔も五メートル内外に保たれていた。そのことは極めて規則性のある配置といえ、計画的に構築順位をもっていたことが物語れる。一号横穴墓は、玄室(げんしつー遺体を安置するへや)の壁際一部を工事で削閉されていたことを除けば完全に残っていた墳墓であった。入り口部分は砂質泥岩の一枚の切り石で蓋をし、さらに外側から小礫を積み上げ粘土で固定している。内部には小礫を一面に敷きつめていた。ここからは二体の人骨と身につけていたと思われる金環二点が発見されている。
この横穴墓群の築造時期は、四号墓から出土した須恵器から七世紀中ごろと考えられている。昭和五十一年四月に市指定を受けている。
平成七年三月
所沢市教育委員会 |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】まっきー
【
最終
更新日時】2024/06/09 18:43:40
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