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基本情報
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住所 |
埼玉県越谷市増森1892 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
JR武蔵野線越谷レイクタウン 徒歩33分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
048-962-7136(越谷市越ヶ谷 久伊豆神社) |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
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創建・建立 |
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旧社格 |
旧村社 |
由来 |
社頭掲示
久伊豆神社奉仕会しんぶん 今和3年(2021年)4月29日第17号(2)
久伊豆神社兼務神社めぐり
増森神社 川の怒りを鎮め水難事故を防ぐ水神様
当社は、増森神社と号するようになった今も、氏子から「水神様」の通称で呼ばれている。その創建の伝承からもわかるように、水難除けの神として崇められるとともに、五穀豊穣・商売繁盛の神ともされている。また、個々に特別な願い事があるときは、手にした百本の藁を目安に、社殿を一巡りするごとに拝礼を繰り返す「お百度参り」をしたり、女性が自分の髪の毛を一束切り、社殿の格子に下げて願掛けを行ったものであった。
年間の祭事は、初神酒(一月一日)・建国祭(二月十一日)・例祭 (七月二十六日)・新嘗祭(十一月二十三日)の四回であるが、例祭と新嘗祭は、近年、本来の祭日に近い日曜日に行っている。
初神酒は、元旦に総代と世話人が神前にお神酒を供えて拝み、その後、お神酒を初詣の人に振る舞う。
建国祭は、明治四十五年の合祀を契機に始められた祭りである。同じく例祭も合祀を記念として始められ、昭和二十年ごろまでは南荻島から神楽連中を頼んで神楽を奉納するのが恒例であった。現在は、祭典の後に青年会と小学校高学年の担ぐ大小の神輿と、小学生低学年の引く山車が氏子区内をにぎやかに巡行する。
新嘗祭は収穫に感謝する祭りで、お神酒・野菜・果物などの通常の神饌のほかに、新米を供えるのが例である。
■氏子
氏子区域の増森には、本田・新田・西川・三丁野・外河原の五つの村組がある。氏子数は一四〇戸で、氏子の中から村組ごと五名ずつの計二五名の世話人を選出する。この世話人の中から更に兼任で一名ずつの計五名の氏子総代が互選されて、そのうちの一名が総代長となる。いずれも任期は四年である。
社殿の大正四年付の「神社所有小作証」によると、当時は社有の田畑の小作料を当社の運営費に充てていたことがわかる。
当社の本殿に奉安する一〇体の金幣は、明治四十五年に増森地内から合祀された諸社にかかわるものである。この中の一体に「香取社境内神社山田大神」と記された金幣がある。この山田大神とは、幕末に当地を飢饉から救った代官の山田一大夫にかかわる社で、大正九年に社掌須賀止一により南埼玉郡神職支会長間宮竜真宛に出された「申告書」に次のような経緯が記されている。慶応四年(一八六八)の災厄の際(詳細は不明)、村人が一大夫に願書を提出したところ、当地を検分の上、罹災者の年貢を免じた。これにより村人は難を避けることができ、一大夫の慈悲を慕い、その徳を称えるために祀ったという。
氏子の間では、かつて百万遍 (七月九日~十三日)と虫追い(七月十七日)が行われていた。百万遍は悪病除けの行事とされ、若い衆が大きな数珠を持って「ナイダー、ナイダー」と唱えながら氏子の一軒一軒を回った。特に昭和十二年に伝染病が猛威を振るった時には「村祈祷」と称して連日にわたり行ったという。これに対し、虫追いは、害を駆除するもので、氏子銘々が松明を手に「ホーイ、ホーイ」と声高らかに耕地を巡った。 |
神社・お寺情報 |
庚申塔 文化十三丙子年三月(1816) |
例祭日 |
初神酒(一月一日)・建国祭(二月十一日)・例祭 (七月二十六日)・新嘗祭(十一月二十三日) |
神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2022/01/23 10:11:08
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