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sugarさん
2024年6月15日 11:23
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基本情報
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| 住所 |
埼玉県幸手市北1-9-27 |
五畿八道 令制国 |
東海道 下総 |
| アクセス |
東武日光線幸手 徒歩10分 |
| 御朱印授与時間 |
|
| 電話番号 |
0480420640 |
| FAX番号 |
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| 公式サイトURL |
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| 御本尊 |
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| 宗派 |
浄土宗 |
| 創建・建立 |
|
| 由来 |
新編武藏風土記稿
葛飾郡幸手宿
聖福寺 淨土宗京都知恩院末 菩提山東皐院ト號ス 本尊阿彌陀ハ木ノ坐像ニシテ運慶ノ作ナリ 又同作觀音ノ像ヲ安セリ 開山大運社乘譽岌傳大永三年正月廿五日寂ス 寺領十石ノ御朱印ハ慶安元年ニ賜ヘリ 鐘樓 延寶二年鑄造ノ鐘ヲカク 荒神社
境内碑
菩提山東皐院聖福寺改築記念碑
我聖福寺ハ菩提山東皐院ト號ス應永年間安阿上人ノ創ムルトコロナリ其後百二十餘年ヲ經テ大永年閒乘譽岌傳上人廢ヲ興シ絶ヲ繼キ第一世ニ補ス徳川幕府ノ時朱印十石ヲ賜フ柳營家晃山祖廟ニ謁スル毎ニ本寺ニ就キテ休息セラレシト云フ第十八世見譽上人第十九世宣譽上人師資同心伽藍ヲ經營シ享保十年乙己竣工ス寛保元年辛酉第二十世𢚢譽上人普ク檀越ヲ募リ三門ヲ興建ス安政四年丁巳六月第二十四世還譽上人重建ス明治紀元戊辰幕府傾覆シ 王政復古スルヤ矢印黑印ノ制ヲ撤シ五畿八道ノ伽藍ハ供養三寶ノ資源一時ニ涸渇ス本寺領域三千五百六十五坪其大半ハ關宿藩士ニ帰屬シ千百二十四坪ヲ存スルノミ窮乏殆ムト支フル能ハス當時仁譽義〇上人第二十五世ニ補ス苦ヲ嘗メ辛ヲ茹フ氣運未タ熟セス興復ノ志達スル能ハス明治三十一年十二月二十一日寂ス三十二年己亥十月不肖赫譽真靜其後ヲ承ケ第二十六世ニ補ス仁譽上人ノ志ヲ繼キ興復ニ焦慮スルコト茲ニ年アリ何ソ〇ラム大正十二年九月一日關東一帶地木ニ震フ本寺亦災厄ヲ蒙フリ損失多大修補ニ堪ヘス是ニ於テ乎昭和三年戊辰三月檀越總代諸彦ト相謀リ興復ヲ規畫ス爾来不肖鋭意努力廣ク檀越信徒ヲ勧請セルニ同清翕然協賛功ヲ奏ス堂宇九十八坪昭和六年辛未十月起工シ七年壬申八月竣工ス輪奐舊ニ復シ莊厳備足ス庫裏八十坪八年癸酉十一月起工シ九年甲戌八月竣工ス厥位陽ニ面ス客室若干換氣採光頗ル衛生ニ適フ而シテ屋上一切堂宇三門ハ總テ銅ヲ用イ庫裡ハ瓦ヲ用ヰテ之ヲ葺ク面目一新セリ工費累計貳萬四千餘金即チ是レ有縁ノ白衣諸彦奉佛致誠ノ結晶感激ニ堪ヘサルナリ但シ鐘樓ハ延寶二年甲寅一月十五日第十七世單譽上人創メテ之ヲ建ノ年所既ニ久シ昭和十年四月起工シ是歳九月竣工ス工費貳千五百金即チ是レ特別信徒小倉氏資ヲ捐テ重建功ヲ奏ス篤志欽スヘシ茲ニ本寺沿革ノ概要及ヒ改築興復ノ事由ヲ叙シ謝恩ノ意ヲ寓スト云フ
昭和十年乙亥十月
大本山増上寺第八十一世眞阿徹水題額
聖福寺第二十六世薫職赫譽眞靜謹識
雅洞白石勇書
境内掲示板
聖福寺
幸手市北一一九二十七
聖福寺は、寺号を菩提山東皐院聖福寺と称する浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来であり、観音像は運慶作と伝えられています。
徳川三代将軍家光が日光社参の時、御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを始めとし、歴代将軍が休憩所としました。将軍の間や勅使門(唐門)があり、左甚五郎作といわれる彫刻なども保存されています。また、御朱印状により寺領十石を賜ったことがわかります。
境内の左手に二つの石碑があり、一つには「花つか」と彫られています。江戸文化が華やかであった寛政の頃、幸手宿に秋月庵一松という人がおり、遠州流生花を普及させました。その後、日光道中でさかんになり、明治になって遠州流の人たちがこの碑を建てたものといわれています。
もう一つは「竹香金子子明墓碣銘并序」で、幸手に住んでいた江戸時代の儒者「金子竹香」の墓碑です。この碑は、博識な蔵書家、能書家として知られた竹香の死を悼んで、近郷有志たちによって建てられています。碑文は儒者で、関宿藩の藩儒も務めた亀田綾瀬の撰文と書によるものです。
幸手市教育委員会 |
| 神社・お寺情報 |
境内掲示板
市指定文化財(有形文化財建造物)
聖福寺勅使門
所在 幸手市北一丁目九ノ二七
指定 平成三年四月一日
唐破風の付いた門を唐門ともいい、この門のように表側と裏側の妻に唐破風があるものを一般に平唐門といいます。江戸時代には、日光東照宮に参拝する江戸幕府の徳川将軍や、日光例幣使が通るとき以外に門の扉は開けなかったといわれています。
建築年代について境内の「菩提山東皐院聖福寺改築記念碑」では、寛保元年(一七四一)、二〇世の愍誉の代に建築し、安政四年(一八五七)の還誉の代に再建、さらに昭和初期に屋根が銅板に葺き替えられたとします。
江戸幕府の道中奉行所が文化三年(一八〇六)に作成した「日光道中分間延絵図」に「唐門」と注記された門が、この門です。また、この絵図には「御殿跡」という注記もあります。江戸時代前期の正保元年(一六四四)に作成が命じられた武蔵国絵図には、ちょうどこの辺りに「御殿」という記載があることから、「御殿跡」とはそれを示すものと考えられます。こうしたことは、聖福寺が「御殿所」とも呼ばれ、日光社参のとき将軍の昼の休息所となったことと関連するものと思われます。
『徳川実紀』には、三代将軍の家光が寛永十九年(一六四二)、四代将軍の家綱が寛文三年(一六六三)、八代将軍吉宗が享保十三年(一七二八)、一〇代将軍の家治が安永五年(一七七六)に、また『続徳川実紀』には、十二代将軍の家慶が天保十四年(一八四三)に、それぞれ聖福寺を昼の休息所としたことが記されてい ます。
幸手市教育委員会
境内碑
竹香金子子明墓碣銘并序
弘化四年丁未冬十一月十一日友人金子子明罹疾而歿年六十三妻野原氏與門生等議遥致書〇余曰吾夫音容倶亡儀型不可復親妾以来亡之身偸生寡居思就瞑之語肝腸欲裂今小祥之期已〇矣幸得先生銘辭光吾夫遺骸之藏死者有知將不悼其沈没於土中矣噫余與子明相識五十餘年〇己先矣豈能一語足寫子明平生乎然其交友皆先化去而無一存者則義不可以已也乃叙其姓名〇事而銘之曰子明諱晋字子明號竹香井上氏俗稱玖右衞門武州埼玉郡久喜郷人父諱世亮母関口氏子明年未壮奉父命出而繼幸手驛金子邦保之家子明為人才𥢙煥發不欲與凢儔伍勤學不倦川閭無足與議者卒從錦城先生及先考而遊紬經稽傳啓迪徹旨故其發於文章也言論高遠務出於寺非尋常淺識輙矜持其所有者之可能及也家素饒於財久秘冊奇書人之所不能致者不惜重貲而〇之故架上所插皆世之所希有者也所造詣已深乃挾其才與學爲山川奇詭秀麗之觀雖避陬僻遠〇境悠渺無人之處必冒險窮竒肆情跋渉而後止故雲笈所蔵紀遊諸什能使人心怯魄駭若親窮〇〇恠者焉晩析抑豪擧群居和暢有執經請誨者必諄々敦諭未嘗少有惰容也暇則援筆為書其初出〇諸家終篤信大王常謂書法正傳莫善於聖教序而未者不職也其尺幅短縑人皆貴重之其將没也〇妻嘱後事援筆為絶命詞溘然而逝妻能輯遺事無失奉遺命不墜乃系之以銘々曰
傳洽之學宜為人師雲笈之文山川炫奇材可以逵用窮于時窮逵之際維命之為
綾瀬龜田梓撰并書
境内碑
幸手を行ば栗橋の関 芭蕉
松杉をはさみ揃ゆる寺の門 曾良
江戸時代、門前の通りの日光街道は、将軍の日光社参をはじめ、さまざまな旅人がゆきかい、その中には奥州へ向う文人、芸術家も多くあったことであろう。
「奥の細道」の旅を終えた俳人松尾芭蕉は、四年後の元禄六年九月十三日、江戸深川、芭蕉庵で十三夜連句を催した折、奥州の旅を思いおこし、同行した弟子曾良と並んで右の句をよんだ。
時を経て、昭和六十二年四月十日付の新聞紙上、埼玉の俳人鈴木太一郎氏は、右二句を紹介しながら、芭蕉に続いてよまれたこの曾良の句の門を、聖福寺の勅使門として間違いななかろうと説を示された。平成十三年、日光街道四百年を迎え、同十四年、山門の改修工事が成り、併せてこの句碑を建立し往時をしのぶものとする。
平成十五年秋彼岸
聖福寺第二十八世 静誉康隆
石碑の書体は、「芭蕉袖草紙」の原本を拡大複写して刻んだものである。 |
| 例祭日 |
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| 神紋・寺紋 |
未登録
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| 更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2026/02/07 07:12:22
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