みんなの御朱印
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rorexgtrさん
2020年5月23日 16:09
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基本情報
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住所 |
和歌山県田辺市稲成町1124番地 |
五畿八道 令制国 |
南海道 紀伊 |
アクセス |
JR紀勢本線紀伊田辺 徒歩24分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0739-22-7606 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
(主祭神)倉稲魂神 稚産霊神 保食神 伊邪那美神 他二神 (配祀神)皇大神 大山咋命 地主神 天児屋根命 須佐男命 表筒男神 中筒男神 底筒男神 豊宇気比売命 息長帯姫命 市杵島姫命 木花開耶姫命 |
創建・建立 |
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旧社格 |
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由来 |
創立年代は不詳であるが、社伝によると鎮座は弘法大師が熊野社参の弘仁年中(八一〇〜八二四)年という。 紀伊続風土記は旧湊村(近世の田辺町紺屋町)の稲荷社を当地に移したと記す。また神社明細帳は神武天皇の御代の鎮座と記す。いずれにせよ往古の創立を語るもので崇敬されていた神社である。室町時代、明応九(一五〇〇)年の棟札には「阿羅毘賀大明神」と記され、元亀年中(一五七〇〜一五七二)年に稲荷大明神に改称、同二(一五七一)年の棟札に初めて「稲荷大明神」の名がみえる。文禄元(一五九二)年朝鮮出兵に先立ち、当社に参詣した杉若越後守の息主が家臣黒坂某を通じ、社人に神殿の開扉を命じたが社人は古くより開扉のことなしとしてこれを拒んだ。黒坂が強いて開扉した所、たちまち盲目となったという。また慶長十(一六〇五)年浅野左衛門佐が造船用に社木を伐ることを命じた。社人は黒坂の例をあげて辞したが伐採は強行された。しかし同年八月この材木で造られた船が沖合で破船、左衛門佐は当地に松一千本を植えて謝したという。 江戸時代を通じて伊作田、糸田両村の産土神、寛文年中(一六六一〜一六七三)年龍神山の相論から龍山大権現を合祀し、熊野三所権現として本殿に相殿した。 明治元年の神仏分離の動きの中で稲荷社、稲荷宮と改称。明治四年稲荷神社と定めた。同六年四月村社となる。同八年六月村内の小社叢社(下村の日吉神社、谷の八坂神社、同所の住吉神社)を境内社の右脇殿に合祀。また同十一年三月糸田の日吉神社に合祀されていた稲荷三神を合祀。同四十年四月には一村一社の神社合祀令により糸田の日吉神社と地主神社を境内社の左脇殿に合祀した。(社叢)境内林は人工林と天然林とからなり保安林に指定されている。大東亜戦争当時あった松の樹は軍需用材として伐採された。現在は大半がスギ・ヒノキの造林地でうっそうとしていて、神社の尊厳を保たれている。(例祭)渡御、祭典、子供御輿、獅子神楽と斎行する。渡御 本殿より約四五〇mの馬場先にある石の鳥居の処と荒光参道にある石の鳥居の処の二箇所に御旅所を設ける。祭典参列者は祭典委員長を始め獅子宿、町内会長外各種団体長等約六十名により渡御の列を組み、馬場先の御旅所に至り御旅所の神事を斎行し、次に荒光の御旅所に至りお祓をし、後還幸する。獅子神楽 谷、荒光、下村の三地区の青年により獅子神楽を奉納する。 |
神社・お寺情報 |
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例祭日 |
1月7日 |
神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】管理者
【
最終
更新日時】2013/02/01 00:00:00
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