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★★★ 参拝日:2015年9月22日 15:03
札所:関東八十八箇所・第46番 上総国三十四薬師・第26番 駐車場:無料 小型20台 大型5台
★★★★★ 参拝日:2024年8月4日 00:00
四国お遍路霊場の砂が納められていて、一周すると八十八箇所回ったことと同じご利益がいただけます。
★★★★ 参拝日:2024年4月29日 15:00
★★★★★ 参拝日:2024年2月10日 09:38
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住所 | 千葉県山武市松ヶ谷イ-2058 |
五畿八道 令制国 |
東海道 上総 |
アクセス | 地図を参照してください。 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0475-84-0248 |
FAX番号 | 0475-84-2462 |
公式サイトURL | http://www.shokakuji.com/ |
御本尊 | 釈迦如来 |
宗派 | 真言宗智山派 |
創建・建立 | 天暦元年(947年) |
由来 | 勝覚寺は天暦元年(947)、村上天皇の勅願寺として開かれた。江戸時代には十石二斗の寺領を受け、安政5年(1858)には両国回向院で出開帳をした記録も残されている。
そもそも当山の本尊釈迦如来像は、天竺の伝説の大仏師毘首羯磨(びしゅかつま)が、謹刻した三体の内の一体で、大同元年(806)に弘法大師空海が密教を入唐求法し、帰朝の折に請来したと伝えられています。 その像は五寸七分(約17cm)と伝えられ、その後、勝覚寺の本尊として奉られるようになりました。 鎌倉時代、武士の時代になって世が荒れる中、大仏師運慶は国家安穏・護国鎮守を祈念して、身の丈七尺に及ぶ四天王像を彫り上げて、龍宮に住む龍神に捧げる為に海中に流しました。 しかしながら、龍宮には届かずに、三浦半島、房総半島を廻り九十九里浜のとある地に流れ着きました。そこを現在では「四天木(してぎ)」(現大網白里町といいます。その昔は四天王が流れ寄ったので、四天寄と表記していました。 漂着した四天王は、松ヶ谷村の勝覚寺の釈迦如来を守るため運んで欲しい、と漁民に伝えた。 人力で運ぶしかありませんが、隣村まで運んだは良いものの、あまりの重さに皆の顔が青ざめたので、そこを「粟生(あお)」(現九十九里町)と言います。 さらに、担いで運び、途中で休息を取り、担ぐ肩を左右入れ替えました。肩を替えたので肩替え、その場所が「片貝」と呼ばれるようになった。 道を進んで川にぶつかり、勝覚寺を尋ねた所、「まだ先だ」と言われたのが、今の「作田(さくだ)」(現九十九里町)。 さらに道中を進んだが、中途で戻すか戻さぬか相談思案をした所が今では「本須賀(もとすか)」(現山武市)。 命からがら担いで来たのが、今の「井之内(いのうち)」(現山武市)、明日は寺に着くから今夜は宿を取ろうと休んだのが、「宿(しゅく)」(現山武市) あろうことか、翌日勝覚寺を通り過ぎ、川(現木戸川)まで出てきてしまった。「困った困った」と頭を抱えたのが、「小松(こまつ)」(現山武市) 川の向こうは「折戸(おりと)」(現山武市) 取って帰して、勝覚寺に辿り着き、「おっと困った、間違えた」(折戸、小松、松ヶ谷)と言ったとか言わなかったとか・・・。 という地元の地名にまつわる伝説が残されています。 その後、運慶がその話を伝え聞き、「毘首羯磨御作の釈迦如来様の所に、私の彫った四天王が奉られるとは素晴らしいことだ。しかし、五寸七分の釈迦如来像と、七尺の四天王では釣り合いが取れない。私が半丈六の御前立ちの釈迦如来像を造ろう」と言い、納められたのが今の釈迦如来坐像と伝えられています。 |
神社・お寺情報 | 札所:関東八十八箇所・第46番
上総国三十四薬師・第26番 御詠歌:おとにきく くろどのはまの してんのう しゃかにたなびく むらさきのくも |
例祭日 | |
神紋・寺紋 | 未登録 |
更新情報 | 【
最終
更新者】まっきー 【 最終 更新日時】2024/04/29 20:28:32 |