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★★★ 参拝日:2014年5月25日 12:56
満徳寺は明治5年(1872)に廃寺になりましたが、地域住民が本尊などを守り、昭和31年(1956)には、跡地の一部が群馬県指定遺跡「縁切寺満徳寺遺跡」に指定されました。 縁切寺満徳寺資料館:200円 縁切・縁結厠がありトイレで縁切りと縁結びが出来る。
★ 参拝日:2026年4月19日 09:05
★★★★★ 参拝日:2024年4月12日 08:00
現在、建物は維持されてるが廃寺ですが奥に博物館が有そこでお寺の成り立ち等紹介してくれてます。
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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
| 住所 | 群馬県太田市徳川町382-2 |
| 五畿八道 令制国 |
東山道 上野 |
| アクセス | 東武伊勢崎線世良田 徒歩27分 |
| 御朱印授与時間 | |
| 電話番号 | 0276-52-2276 |
| FAX番号 | 0276-52-5311 |
| 公式サイトURL | http://www8.wind.ne.jp/mantokuji/index.html |
| 御本尊 | 阿弥陀如来 |
| 宗派 | |
| 創建・建立 | 不詳 |
| 由来 | 江戸幕府を開いた徳川家の祖とされる世良田義季の開基により創建されたと伝えられる。そのことから徳川家の帰依を得、2代将軍・徳川秀忠の娘・千姫が豊臣秀頼と別れた後、縁切のためこの寺に入り、その後本多忠刻に再嫁したという。江戸時代には幕府から朱印状も与えられていた。幕府瓦解により、1872年(明治5年)に廃寺となったが、地域住民が本尊などの什物を守ってきた。1992年(平成4年)、尾島町により縁切寺満徳寺資料館(現、太田市立縁切寺満徳寺資料館)が開館し、遺跡地には1994年(平成6年)に本堂・門などが復元され、遺跡公園として整備されている。寺院として復活させる動きもある。
満徳寺の始まりについての確実な記録はありません。わずかに寺の言い伝えに過ぎない「由緒書(寺法申立書)」があるに過ぎません(火災や廃寺のために、史料のほとんどが失われたため)。 それによれば、鎌倉時代、徳川義季(とくがわよしすえ)が開基となって満徳寺を建立し、最初の住職(開山)には、出家した義季の娘がなり、浄念尼(じょうねんに)と称しました。二世は義季の孫の浄院尼(じょういんに)で、浄院尼の名は長楽寺文書にも見られ、その後も代々新田氏ゆかりの人たちが住職になり、三世念空比丘尼(ねんくうびくに)、四世慈円比丘尼(じえんびくに)と伝えられています。 しかし、その後約200年間の寺史は空白となっています。おそらく新田氏の没落とともに満徳寺も衰退したに違いありません。16世紀初めに時宗(一遍上人のひらいた遊行宗のこと)の尼寺(道場)であったことが、満徳寺についての最も古い確実な記録です。 右写真の開山浄念尼像は、元禄4年(1691)に作られましたが、この時期に満徳寺の由緒や寺格が整えられたようです。 |
| 神社・お寺情報 | 縁切寺
縁切寺とは、江戸時代に離婚を求めて駆け込んだ妻を救済して、夫との離婚を達成させてくれた尼寺のことで、「駆け込み寺」とも「駆け入り寺」ともいいます。縁切寺は寺院のもつアジール性の名残と考えられ、男子禁制の尼寺には、一般的に縁切寺的機能があったと思われます。 しかし、江戸時代中期以降、幕府から公認された縁切寺は、ここ上州(群馬県)の満徳寺と相州(神奈川県)鎌倉の東慶寺の二つだけでした。 そのことは宝暦8年(1758)に上州勢多郡東大室村(前橋市)彦八の女房「ふみ」(実家は佐位郡市場村-赤堀村-)が満徳寺へ駆け込んできた事件に関連する史料に残っています。それによれば、幕府公認の縁切寺は東慶寺と満徳寺に限ること、たとえ満徳寺の寺法を拒否しても、評定所一座(現在の最高裁判所大法廷にあたる)で、寺法通りに離婚が仰せ付けられるので、離縁状の提出を断ることはできないと、寺社奉行は命じています。 ところで、スタンダールは『恋愛論』のなかで、縁切寺のような女のための楽園を夢みています。スタンダールがこれを著したのは文政5年(1822)のことで、満徳寺には安房国長狭郡天面村の「みゑ」が在寺してました。縁切寺は、世界的に特異な制度で、日本にしかなく、世界に二つのものなのです。 世界に二つの東慶寺と満徳寺が、江戸時代を通じて縁切寺として存在しえたのは、徳川家康の孫娘千姫(せんひめ)にかかわる由緒によります。 東慶寺は、千姫が助命をかなえた豊臣秀頼の娘天秀尼(てんしゅうに)(二十代住職)の入寺にあたって、家康から縁切寺の制度を特別に許可されました。 満徳寺は、千姫自身が入寺し、離婚後再婚した例にならって、両寺とも古くからの縁切寺法の特権が再確認されたと伝えられています。 ところで、千姫本人は入寺せず、身代わりに俊澄上人(しゅんちょうしょうにん)が住職として入寺したといわれます。俊澄上人は満徳寺中興開山と称されましたが、その出自にはいろいろな説がみられ、定かではありません。 満徳寺の住職は弟子譲り、つまり先の住職が後の住職を選任しました。三代まで大奥から住職が選任されているので、俊澄上人も大奥にいた人物と考えられます。 なお、千姫入寺の由緒は、真偽のほどは別として、満徳寺の寺格に盤石の重みを与え、縁切寺法の存続・擁護に強力な背景となりました。 鎌倉時代に新田荘の徳川郷を領地とした新田義季(新田義重の子)は、所領にちなんで徳川(得川)四郎と名乗りました。 徳川家康はこれを先祖とするという由緒が江戸時代の満徳寺の地位を決定しました。家康は徳川郷を徳川氏の先祖新田氏の故地、つまり徳川氏発祥の地であるとして、天正19年(1591)11月、450石の御朱印地(ごしゅいんち)として年貢課役(ねんぐかやく)を免除し、特別に庇護しました(そのうち100石が満徳寺の御朱印地とされた)。徳川村といわず中世的な「郷」と称したのもその現れと考えられます。 徳川郷の百姓は脇差(わきざし)をさし、大名行列にも土下座(どげざ)しなかったといわれています。徳川郷を支配したのは正田隼人(しょうだはやと)家で、土地では「頭役」と呼ばれ、将軍の代替わりに際しては、満徳寺住職と並んで拝謁の栄によくすなど特別な地位にありました。享和2年(1803)の徳川郷明細帳によれば家数は72軒、人口は285人でした。 満徳寺は、徳川氏発祥の地にあり、徳川氏の先祖が建立した寺であり、千姫が満徳寺に入寺したことにより、さらにこの由緒が強調され、寺格を高めることとなりました。 |
| 例祭日 | |
| 神紋・寺紋 |
未登録
|
| 更新情報 | 【
最終
更新者】zx14r 【 最終 更新日時】2026/04/19 09:05:38 |






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