みんなの御朱印
自分の御朱印
まだ御朱印が登録されていません
みんなの参拝記録
1
101
自分の参拝記録
まだ参拝記録が登録されていません
みんなの動画
自分の動画
まだ動画が登録されていません
基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県幸手市中1-16-23 |
五畿八道 令制国 |
東海道 下総 |
アクセス |
東武日光線幸手 徒歩2分 |
御朱印授与時間 |
|
電話番号 |
0480-43-3151 幸宮神社 |
FAX番号 |
|
公式サイトURL |
|
御祭神 |
菅原道真公 |
創建・建立 |
|
旧社格 |
|
由来 |
境内掲示板
天神神社
所在地 幸手市中一丁目十六番二十三号
天神神社は、もとは裏町天神といわれ、祭神は菅原道真である。
この神社の創建については明らかでないが、戦国時代の幸手庄の領主一色氏によって創建されたものと伝えられる。一色氏は学問の神様である天神信仰に帰依されて、幸手地方に多くの天神社を造営した。特に裏町・天神島・平須賀・神扇・上高野の五社は一色五天神と称されている。この裏町天神は一色氏館の鬼門に位置していたともいわれ、館の守護神として祀られたと伝えられている。
以前は、裏町も天神社にあやかって天神町(現在は、住民表示により中一丁目)とよんでいたことがある。
昭和六十三年 三月
埼玉県
幸手市
天神神社
御祭神 菅原道真公
例大祭 十月二十五日
天神神社の創建については詳らかでありませんが、幸手が田宮の庄と云われた応永年間西暦一四〇〇年頃幸手城主一色氏によって此の地に建立されたと伝えられております。
一色氏は代々文武の道に励み我国の武将として勇名を残しております。
学問の道には特に精通され学問の神天神信仰に帰依され鎌倉の荏柄天神社より祭神を勧請し、幸手附近に五天神社を建立しました。
當天神神社は一色五天神の一社であり俗に裏町荏柄天神と称しております。
近世江戸時代になり一〇無民の間に学問が盛んになり寺小屋で習字手習をする人々の間に天神講が行われ當社には幸手宿の熱心な信者の方々の社殿修〇の記録が殘されております。
裏町荏柄天神は久しく裏町満福寺の管理のもとにありましたが、慶應四年一八六八年神佛分離によって寺から離れ、裏町の氏神として面目を一新し学業御信仰の神としてますます崇敬を深め裏町も天神神社にあやかり町名も天神町と改め、爾来星霜百年〇日の隆昌發展を見るに至ったことは神徳の〇らしむるところであります。
昭和五十三年一月一日
天神神社奉賛会
小路積蔵撰文
中村素光謹書 |
神社・お寺情報 |
猿田彦大神の由来
猿田彦大神は庚申さまとも申します。
庚申とは暦の十干干支(えと)の組合せによる六十日目に一回めぐってくる庚申(かのえさる)の信仰をいいます。この庚申は古く中国から渡来してきたものですが、日本では佛説と神説にわかれ、青面金剛を祀る庚申塔は佛説であります。猿田彦大神を祀る庚申さまは神説として知られております。猿田彦大神は道案内の神、方位方角の神として信仰され、明治以前までは庚申(かのえさる)の晩は、人々は集い夜もすがら語り明かした庚申待と云ふ行事が伝えられています。天神町も裏町云った当時この庚申待の行事は盛んであったそうです。
安部谷助氏は信仰心厚く地元の発展と繁栄をねがい猿田彦神社の建築を発心し、有志の方々の賛同を得、昭和五年伊勢の猿田彦本社より分神をいたゞきこゝに猿田彦神社を建立したわけであります。
昭和五十五年は六十年目にめぐりくる庚申の年であります。由来を略記し、参考と致します。
撰文 小路精蔵 |
例祭日 |
十月二十五日 |
神紋・寺紋 |
未登録
|
更新情報 |
【
最終
更新者】ムンク
【
最終
更新日時】2024/05/05 09:50:21
|
※神社やお寺など日本文化の専門企業が算出している日本唯一のオリジナルデータですので、ご利用になりたい法人様やマスコミの方々は
こちらよりお気軽にご相談ください。
近くの神社・お寺
近くのお城
神社・お寺検索
※は必須です
※「神社・お寺両方」を選ぶと、一度に全て検索ができ大変便利です。プレミアム会員限定の機能となります。登録は
こちら。