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基本情報
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住所 |
埼玉県川越市富士見町33-1 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
JR川越線川越 徒歩10分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
049-222-1396〈川越八幡神社〉 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
火産霊命 |
創建・建立 |
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旧社格 |
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由来 |
愛宕神社<川越市富士見町三三-一(大仙波字富士ノ腰)>
当社は仙波河岸にある。仙波河岸は新河岸川舟運の最上流の河岸であり、古くから東照宮・三芳野神社の資材運搬時に利用されているが、正式な河岸開設は明治初年である。河岸としては新しいが当地の歴史は古く、『風土記稿』に「塚三、六角堂塚、猫山塚、甲山寺塚の名あり」とあり、当社について「愛宕社 円径五十間、四方の塚上に立、この社頭よりの眺望東南の方打開けて、最も勝景の地なり、又爰より坤の方二三町を隔て浅間の社立る塚あり、土人いかなる故にや其塚を母塚と呼び、当所を父塚とわかちいへり」と載せている。
また『武蔵名所図会』には「祭神彦火々出見尊、別当万仁坊当山派修験、往古此所迄武蔵野なりし頃此辺の野中に百塚あり、就中富士浅間之山と此愛宕尤大也、依而父塚母塚と云ひしか何の頃にや浅間と愛宕の両社勧請せり。瀑布麓に有清潔之冷泉にて参詣之人かならす此飛泉に垢離す、毎年六月廿四日を以て祭祀あり、此日柴焼護摩修行ある。摂社婆伽羅龍王」とある。
社記は「祭神火産霊命、平安の頃山城国愛宕山より分霊を奉斎、天文九年川越城大道寺駿河守の許状、文禄二年山城国愛宕山長床坊内東光坊の末寺とする書状があり。慶長一九年川越城主より中田一反中畠一反の寄進がある」と記す。(「埼玉の神社」より)
境内掲示板
愛宕神社
川越市富士見町三三ノ一 (大仙波字富士ノ腰)
歴史
当社は仙波河岸にある。仙波河岸は新河岸川舟運の最上流の河岸であり、古くから東照宮・三芳野神社の資材運搬時に利用されているが、正式な河岸開設は明治初年である。河岸としては新しいが当地の歴史は古く、『風土記稿』に「塚三、六角堂塚、猫山塚、甲山寺塚の名あり」とあり、当社について「愛宕社 円径五十間、四方の塚上に立、この社頭よりの眺望東南の方打開けて、最も勝景の地なり、又爰より坤の方二三町を隔て浅間の社立る塚あり、土人いかなる故にや其塚を母塚と呼び、当所を父塚とわかちいヘり」と載せている。
また『武蔵三芳野名勝図会』には「祭神彦火々出見尊、別当万仁坊当山派之修験、往古此所迄武蔵野なりし頃此辺の野中に百塚あり、就中富士浅間之山と此愛宕と尤大也、依而父塚母塚と云ひしか何の頃にや浅間と愛宕の両社勧請せり。瀑布麓に有清潔之冷泉にて参詣之人かならす此飛泉に垢離す、毎年六月廿四日を以て祭祀あり、此日柴焼護摩修行ある。摂社娑伽羅龍王」とある。
社記は「祭神火産霊命、平安の頃山城国愛宕山より分霊を奉斎、天文九年川越城大道寺駿河守の許状、文禄二年山城国愛宕山長床坊内東光坊の末寺とする書状があり。慶長十九年川越城主より中田一反中畠一反の寄進がある」と記す。社殿造営は、文化七庚午歳六月十五日別当万仁坊銘の本殿棟札がある。現在の本殿は関東大震災後の再営である。
信仰
当社には地蔵菩薩が安置されている。これは火除けの信仰から城の鎮めとして祀られ、城主から田畑を寄進されるなど、城の鎮護としての尊崇を受けた。また、新河岸川の上流、俗に「仙波の滝」の上に当社はあり、名勝図会にいう摂社姿伽羅龍王は、水運関係者に信仰され俱利伽羅不動像が祀られている。
更に口碑は「当社は麻疹に効く神様といわれて、麻疹が流行した時、母親が子供を抱いて本殿の下を潜り抜けると軽く済むといわれる。また、浅間神社のある塚を母塚、愛宕神社のある塚を父塚と呼び、当歳児は七月一三日の初山には母塚に、同二四日には麻疹が軽いようにと父塚に詣でる」と言う。
当社の祭礼は、七月二三、二四日の愛宕様の祭りであり昭和の初期までは愛宕祭りの万灯が飾られた。二三日の朝、若衆が幟旗を立て、石段下の広場に櫓を組み夕刻から神楽囃子を行った。また、石段下にマタギ(跨ぎ灯籠)を立て、道筋には万灯を飾った。この日は酒番が一晩中拝殿に詰めて参詣者に御神酒の接待をし、露店が二〇〇軒ほど出たという。祭典は翌朝九時から行い、神賑わいに神楽囃子が奏され、若い衆は境内で力石を持ち上げて興じた。これも戦争が激しくなり、昭和一三年を最後に消えてしまった。
現在の祭りは、祭典後、囃子保存会により、囃子の奉納がある。 |
神社・お寺情報 |
新編武蔵風土記稿
入間郡大仙波村
愛宕社 圓徑五十閒四方ノ塚上ニ立 コノ社頭ヨリノ眺望東南ノ方打開ケテ最モ勝景ノ地ナリ 又爰ヨリ坤ノ方二三町ヲ隔テ淺閒ノ社立ル塚アリ 土人イカナル故ニヤ其塚ヲ母塚ト呼ヒ當所ノヲ父塚トワカチイヘリ 又當所ノ塚ハ仙波七郞高家ヲ葬シ所ナリト云ヘト更ニ正シキ據トスヘキコトナシ
境内碑
地蔵菩薩開眼平成七年大祭
拜殿幣殿新築記念碑
平成八年十二月建之
境内の整備 平成四年より七年
地蔵菩薩 佛師 北山憲信 彩色者 姫路青峰
当社の創始は不明です 文禄二年京都愛宕山より祭神を勧請し仙波愛宕神社として崇敬者により維持されて今日に至った 平成四年十二月十七日未明不慮の火災により社殿を焼失した この度関係者の協力により拜殿幣殿が再建された
宮司 榊原茂 崇敬者一同
境内掲示板
愛宕神社古墳
(市指定・史跡)
仙波台地の東南端上に築かれたもので、かってこの付近一帯には六つ塚稲荷の名称から考えても多くの古墳群が存在していたことがうかがえる。高さ六メートル、東西三十メートル、南北五十三メートルを有し、基壇のある二段築成の円墳で、幅約六メートルの周溝が東南の斜面を除いて巡っている。六世紀中葉期のものと思われる。現在は愛宕神社が祀られている。
昭和六十三年三月
川越市教育委員会
境内掲示板
松尾芭蕉句碑
はせを
蓬菜に聞ばや伊勢の初便り
元禄七年一六九四年元旦に江戸で詠んだ作品といわれている
床間のめいでたい蓬莱飾りをみていると伊勢からの初便りが来たようだ と解されている
蓬莱は関西の新年の祝儀の飾りもの のしあわび かち栗 昆布 野老 ほんだわら だいだい エビ などを飾り祝う
東京新宿の花園神社、滋賀県長浜市の慶雲館などにも句碑が建立されている
芭蕉はこの句を詠んだ年の十月十二日に亡くなった
松尾芭蕉句碑
はせを(ばしょう)
名月に麓の霧や田の曇
元禄七年一六九四年八月十五日芭蕉が伊賀国上野赤坂今の三重県で月見した時の作品といわれている。
伊賀の赤坂も川越の仙波もともに大地の突端で眺望が良いところから選句されたといわれている。
ここ川越の仙波地域は江戸後期から俳句が盛んで愛好する人たちが安政四年一八五七年に建てたものである。
芭蕉はこの句を詠んだ日から二ヶ月に満たない十月十二日に亡くなってしまったといわれている |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2024/09/08 18:03:59
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