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参拝日:2024年7月29日 00:00
★★★ 参拝日:2019年5月4日 12:40
【社務所】 大湊神社 陸ノ宮(あげの宮) 駐車場あり
参拝日:2025年9月1日 11:05
参拝日:2025年9月1日 11:00
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基本情報
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| 住所 | 福井県坂井市三国町安島23-15-1 |
| 五畿八道 令制国 |
不明 |
| アクセス | えちぜん鉄道三国芦原線三国港 徒歩42分 |
| 御朱印授与時間 | |
| 電話番号 | 0776-81-2959 |
| FAX番号 | 0776-82-8152 |
| 公式サイトURL | https://echizen-oshima.com/ |
| 御祭神 | 事代主神 す少彦名神 |
| 創建・建立 | |
| 旧社格 | 郷社 |
| 由来 | 創立の年月不詳。白雑年問(650〜)の勧請と伝え延喜式内の古社である。往昔異国の軍船が当国へ渡来した時、祭神安島浦三保大明神が現在の陣ケ岡の地松ケ原の岡に於て霊験を顕し夷賊を退治されたという。此の事が後日文武天皇の叡聞に達し大宝元年(701)12月12日三頭の勅使が当地に下向され、三千七百余石の社領を寄進された。これより弓矢の神として崇め諸人が参拝祈願の際に弓矢を奉納する様になった。殊に海上守護の神としても仰がれ、当浦や三国港等に寄港する船舶は必ず参詣し船の危難除に神前の矢羽を願い受けて海上安全を祈願したという。文治2年(1186)の秋、源義経が主従と共に奥州へ下降に際し当地に止宿して参拝し家臣亀井六郎重清の兜一領を奉納し一門の武運と海上安全を祈願した。永禄年間(1558〜)朝倉義景は一門の祈願所に定めて参拝し社領を加増した。天正年中(1573〜)迄は社家七軒で社務が執り行われてきたが織田信長の兵火にかかり社殿は焼失し社領も没収された。このことから慶長年間(1596〜)まで毎年2月20日より10日間陣ケ岡で神主や村役人が集り海上に向って怨敵退治の「二タ手(ふたて)の矢」の神射式が行われてきたが、神主等が無禄になり七家の社司の内六家までが他の職に就いて特殊神事は中絶した。しかし古老の伝では「ヤヤノオカカノカドサシテシュー」と一声を唱えて矢を放つ神事は天保の頃(1830〜)まで細々と続けられたという。第二代福井城主松平忠直は当社の由緒等を調べ、社殿の造営と二拾石の社領を寄進し領内大社一四社の内の祈願所に定めた。代々藩主の崇敬も篤く社運は隆昌し社務も復興した。嵩村を御旅所として神領十ケ村を各村送りでする神幸祭は「お獅子さま」で親しまれる春の御渡り神事等郷内の文化の中心であった当社は、明治8年2月10日旧敦賀県に於て郷社に列せられ、同41年4月26日幣吊供進神社に指定された。同45年6月8日同浦道間瀬垣内にあって天照皇大御神・伊邪那岐尊・伊邪那美尊を祀る無格社大神宮及び品陀別尊を祀る境内社の八幡神社を合併合祀。相殿楊瀬神社式内社である当社は、天正年間(1573〜)大破し復興の途が立たず大湊神社に合祀されたという。その宮跡をヤナギ屋敷と呼んでいる。此の屋敷の傍にどのような旱魃にも涸れない大井戸があり大湊神社の御膳水となっていた。この縁から堂川とも称した。またこの地に神坐石という石があり往昔は大湊神社御輿渡御の節は駐輦されたと伝えている。宮地からは鳥居・燈籠などの破片が掘り出された。このような旧跡の遺物や口碑を調査の上明治9年2月楊瀬神社の称号を賜った。社宝の安島浦三保大明神寄進状は大宝元年で御神徳と往昔の故実を記し、元和7年(1621)松平忠直の寄進状には安島・梶・崎・宿の四浦と平山・西谷・嵩・覚善・滝谷・米ケ脇の六村の神領等が記されている。 |
| 神社・お寺情報 | 陸ノ宮(あげの宮) |
| 例祭日 | 例祭 4月20日 |
| 神紋・寺紋 |
|
| 更新情報 | 【
最終
更新者】優雅 【 最終 更新日時】2025/12/14 00:32:53 |






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