埼玉県さいたま市浦和区北浦和3-15-22 正覚山超勝院廓信寺の写真1
埼玉県さいたま市浦和区北浦和3-15-22 正覚山超勝院廓信寺の写真2
 3.3

正覚山超勝院廓信寺


埼玉県さいたま市浦和区北浦和3-15-22

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やまちーさん
参拝日:2024年3月23日 16:16

thonglor17さん
★★★★ 参拝日:2023年9月2日 07:48


burikoさん
★★★★ 参拝日:2023年7月20日 17:19
ネムノキ ノアサガオ
正覚山超勝院廓信寺の参拝記録4
0
278
abentsuさん
★★ 参拝日:2021年5月1日 13:56

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基本情報


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住所 埼玉県さいたま市浦和区北浦和3-15-22
五畿八道
令制国
東海道 武蔵
アクセス JR京浜東北線北浦和 徒歩4分
御朱印授与時間
電話番号 0488316963
FAX番号
公式サイトURL http://kakushinji.blog.fc2.com/
御本尊
宗派 浄土宗
創建・建立
由来 境内碑
堂宇改修記念
 當寺ハ徳川二代將軍秀忠ノ上意ニ因リ岩槻城主高力河内守清長ノ家臣中村弥右衛門尉吉照代官トナリコノ地ニ針箇谷村ヲ取リ立テ当所ニ在リシ念佛堂ヲ慶長十四年(西暦一六〇九)檀林鴻巢勝願寺不残上人ノ符法光與萬霊和尚ヲ請シ新寺ヲ建立シ正覺山超勝院廓信寺ト公称シ御朱印二十石ヲ徳川幕府ヨリ拜領ス
 七世達玄和尚代明和年間(一七六四)本堂方丈長屋焼失シ山門地蔵堂ノミ残ル 八世從得和尚代安永年間(一七七二)本堂八間四面庫裡七十三坪木造萱葺ノ再建ニ着手十一世快玄和尚代寛政年間(一七八九)完成ス
 堂宇荒廃セルヲ以テ檀信徒相謀リ昭和二十九年九月(一九五四)本堂間口七間奥行十二間半地下三十五坪五合鉄筋コンクリートアルミ葺ニ改築ノ工ヲ起シ前ニ在リシ本堂内陣ヲ内ニ保存下陣ヲ移築シテ諸佛堂トシ三十年三月竣工三十一年十月書院四十四坪庫裡三十三坪木造瓦葺ノ新築ニ着工三十二年三月完工ス同五月五日 秩父宮妃殿下 御来浦ノ折御参詣セラル荒▢セル地蔵堂ヲ取毀チ跡地ニ学校法人厚德幼稚園ヲ建設シ三十一年四月開園ス
 五世祖玄和尚明和五年(一七六八)梵鐘ヲ造立セルヲ太平洋戦争ニ当リ十七年十二月供出三十三年十二月鐘楼ヲ移築シ再鋳吊鎮ス
 境内ノ整備ヲ完了シ落慶ニ当リ寺暦ノ変遷ヲ畧記ス
  昭和三十九年五月十七日
    当山二十三世 進譽愍成 撰書

境内碑
鐘楼改築超勝門築地建立記念
 浄土宗の宗祖法然上人の法灯を継承した第二祖鎮西聖光上人七百五十回忌 第三祖記主良忠上人七百回忌 総本山知恩院第二世勢観房源智上人の七百五十回忌が 昭和六十二年を正当の年として 一宗を挙げて三上人遠忌大法要が奉修された
 慶長十四年開山された当寺の本尊阿弥陀如来が 藤原期定朝様式の仏像として 昭和六十一年 埼玉県教育委員会によって埼玉県文化財に指定された
 この三人遠忌と 本尊阿弥陀如来の埼玉県文化財指定の意義を後世に伝え遺すため鐘楼の改築と超勝門ならびに築地建立の記念事業を発願した
 幸にも檀信徒の格別の協賛を得て 昭和六十三年六月に竣工し 十一月十三日 三上人遠忌法要と建造物の落慶法要を厳修することを得た
 ここに称名念仏の勝縁と 本尊如来への報恩供養の次第を誌して記念とした
 昭和六十三年十一月十三日
   廓信寺二十四世  光譽成昭敬白
   壇信徒総代委員長 武藤公吉

境内碑
三門(仁王門)金剛力士像(阿形・吽形)平成大修理記念
 お念仏の宗祖法然上人が建暦二年(一二一二年)京都東山大谷の草庵(現知恩院)で往生なされてから八百年を迎える平成二十三年(二〇一一年)浄土宗では宗祖法然上人八百年大遠忌法要を奉修
 廓信寺開創慶長十四年(一六〇九年)開山臺運社光譽上人萬霊大和尚開基中村弥右衛門尉吉照(浦和領代官)開創四百年を迎える平成二十一年(二〇〇九年)を記念し三門(仁王門)金剛力士像(阿形・吽形)大修理と併せ法然上人像誓願庭の造営を発願した 幸にも壇信徒の格別の協賛を得て平成十八年十月に完成す
 法然上人八百年大遠忌法要と併せ廓信寺開創四百年大法要を奉修することを得る
 ここに称名念公の勝縁と開山上人歴代諸上人開基中村弥右衛門尉吉照の遺徳を偲び報恩感謝を念じ次第を誌して記念とした
  廓信寺第二十四世 光譽成昭敬白

境内掲示板
埼玉県指定有形文化財(彫刻)
木造阿弥陀如来坐像
 昭和六十一年三月二十二日指定
 廓信寺は、浦和郷一万石の代官中村吉照(元和八年-一六二二-没)が旧主高力清長(岩槻城主)追福のために建立した浄土宗の寺である。
 この尊像は、寺伝によれば、大阪城の内仏であったものを、吉照が徳川家から拝領し、廓信寺の本尊としたものという。円満な尊顔をもち、等身大の堂々とした体軀をもつ坐像で、像高八八センチメートル、膝張七〇センチメートルである。寄木造り、玉眼嵌入で、衲衣は偏袒右肩、印相は中品中生印(説法印)であり、肉身部は金泥仕上げ、衲衣部は漆箔となっている。
 元禄十四年(一七〇一)の修理銘があるが、造像当時の姿をよくとどめている。平安時代後期に盛行した定朝様式の特色を余すところなく備えた仏像彫刻の優品といえる。なお制作年代は、鎌倉時代初期と考えられる。
 昭和六十二年八月
  埼玉県教育委員会
  浦和市教育委員会
  廓信寺

新編武藏風土記稿
足立郡針ケ谷村
廓信寺
淨土宗鴻巢宿勝願寺末正覺山草樹院ト號ス 本尊ハ彌陀ヲ安セリ 當寺ハ古ヘ一宇ノ念佛堂ナリシヲ慶長年中中村彌右衞門吉照新タニ建立シテ一寺トナセリト 則寺號ハ吉照カ舊主河內守ノ法號廓信道譽ト己カ法諡信譽ノ頭ノ字ヲトリテ廓信寺ト名ツケシト云リ サニハアラテ淸長カ法號ノミヲトリシト見エタリ シカノミナラス吉照カ卒セシハ元和八年ノコトニシテ當寺ヲ開キシハ慶長年中ナリシト云ヘハ年代齟齬セリ 按スルニ吉照舊主河內守淸長追福ノ爲ニ當寺ヲ基立シ淸長ノ法諡ヲモテ寺號トセシヲ彌右衞門卒セシ時寺號ノ一字ヲトリテ法諡トナセシナルヘシ 則開基ハ中村彌右衞門ニシテ開山ヲ光譽滿靈ト云 武州岩槻ノ人ナリ 姓ハ深井氏不殘上人ノ法嗣ナリ 正保三年三月廿五日示寂ス 當寺二十石ノ御朱印ハ慶安二年ノ八月十七日賜フ所ナリ
地藏堂 地藏ハ中村彌右衞門カ妻寄附セリ 仁王門 金剛ノ二像アリコレハ中村彌右衞門寄附セリトイフ 鐘樓 鐘ハ近キ頃ノ鑄造ナリ傍ラニ元享四年ノ甲子ノ古碑アリ
神社・お寺情報 境内掲示板
浦和市指定有形文化財(歴史資料)
小泉蘭斎墓碑一基
 昭和六十年三月二十八日指定
 小泉蘭斎は、文化八年(一八一〇)三上藩(滋賀県)藩士の子として江戸に生れ、三十八歳のとき藩を辞し、別所村(現浦和市)に移り、寺小屋を開いた。当時の浦和県が浦和宿本陣に郷学校を開くにあたり、石川直中校長のもとに蘭斎も招かれ、その教師となった。浦和郷学校は、明治四年二月、玉蔵院を校舎として正式に開校したが、蘭斎は、翌五年五月十三日、病歿した。明治十年。教え子たちが拠金してここ廓信寺に墓碑を建て、香華料を託した。この碑は、背面に蘭斎の事歴を刻んでおり、浦和の近代教育の歴史を知る資料として欠くことのできないものである。
浦和市指定有形文化財(歴史資料)
廓信寺板石塔婆一基
 昭和三十六年三月三十一日指定
 この板石塔婆は、高さ(地上)一二六センチメートル、厚さ四・五センチメートルで、蓮台上に阿弥陀如来を表わす種子「キリーク」を大きく刻み、脇侍の位置に、六字名号「南無阿弥陀仏」を刻んでいる。そして中央に「元享二二年甲子五月四日」とあり、元享四年(一三二四)の造立になることが知られる。鎌倉時代末期の特徴をよく備えた端正な作である、保存も非常によく、市域を代表する優れた板石塔婆である。
 昭和六十二年九月
  廓信寺
  浦和市教育委員会

境内掲示板
浦和市指定天然記念物
 廓信寺のカヤ 一株
  指定年月日 平成八年三月一日
 このカヤは、樹高一六・五メートル(目測)、目通り幹まわり二・四六メートルの雄株で、枝下八メートルの直幹と大きな樹冠から自然に垂れ下がる枝が、大樹の趣を見せている。樹齢は、約三〇〇年と推定される。
 カヤ(Torreya nucifera Sieb. et Zucc.)は、イチイ科の常緑高木で、岩手、山形の両県以南の日本と韓国の済州島に分布している。カヤは雌雄異株で、花は四・五月に咲き、雌木は、翌年十月に熟す。材は、弾力があり、香りが高く、彫刻材や基盤材をはじめ各種の利用があり、種子は、食用となるほか薬剤、食用油など多方面に利用され、身近な有用植物と言える。
 市内にも寺院や神社などにカヤは多く植えられ、それらの中で、この木は、大樹と言えるもので、古木の風格を備えており、樹勢はなお旺盛であり、保存価値が高い。
 平成八年十一月
  浦和市教育委員会
  廓信寺

境内掲示板
サツマイモの女王
紅赤の発祥地
 江戸時代以来、関東でサツマイモといえば川越で、「アカヅル」、「アオヅル」といういい品種を持っていた。
 ところが明治三十一年(一八九八) 秋、浦和市北浦和(当時の木崎村針ヶ谷)で、それ以上のいもが発見された。
 発見者はここの農家の主婦、山田いち(一八六三~一九三八)だった。いちは皮が薄紅色の「ハッ房」を作っていた。それを掘っていると皮の紅色がびっくりするほど濃く、あざやかで美しいいもが出てきた。ハッ房が突然変異したもので、形も味もすばらしかったため大評判になった。
 いちの家の近くに、いちの甥で篤農家の吉岡三喜蔵(一八八五~一九三八)がいた。この新しいいもに惚れ込み、「紅赤」と命名、それを広めることを使命とし、懸命に働いた。
 そのため紅赤(俗称、金時)はたちまち関東一円に普及、「サツマイモの女王」とうたわれるようになった。川越いももむろん紅赤になり、その名声はますます上った。
 昭和六年(一九三一)、山田いちは財団法人、富民協会から「富民賞」を贈られた。それはわが国の農業の発展に貢献した人に贈られるもので、農業関係では最高の賞だった。
 今年、平成十年(一九九八)は紅赤発見から百年になる。さしもの紅赤も最近は新興の「ベニアズマ」に押されて振わなくなったが、このいもほど寿命の長かったものはない。そこで山田、吉岡両家の菩提寺で、紅赤発祥の地にある廓信寺の一角に、この功績案内板を設置することになった。
 平成十(一九九八)年九月吉日
  川越サツマイモ商品振興会
  川越いも友の会
  浦和市教育委員会
  廓信寺
例祭日
神紋・寺紋 未登録
更新情報 【 最終 更新者】thonglor17
【 最終 更新日時】2023/09/03 16:01:20
 
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