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基本情報
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| 住所 |
埼玉県春日部市粕壁東2-12-20 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
| アクセス |
東武伊勢崎線春日部 徒歩10分 |
| 御朱印授与時間 |
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| 電話番号 |
0487523263 |
| FAX番号 |
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| 公式サイトURL |
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| 御本尊 |
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| 宗派 |
曹洞宗 |
| 創建・建立 |
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| 由来 |
境内碑
東陽寺本堂庫裡客殿建設顕彰碑
東陽寺 今昔
当寺の歴史は古く、今を去ること文明年間(一四六九)前後の開創といわれ、旧地は市内宮本町、八幡神社の東隣に位置し、本尊薬師如来の霊験は真にあらたかで、参詣する人々は遠近を問わず、引きも切らぬ勢いであったという。寺誌に「公録朱印七旬余石 法輪常転也」とあったが、江戸時代では御朱印七十石は七十万石の大名と同列の格式とされ、また寺紋が十六の菊花章であることや、「新編武蔵風土記」には、「古は大寺なりしが云々」と記されていることなどからも、寺格の高い寺院であったことがうかがえる。
寛永元年(一六二四)火災により、諸堂宇、御朱印状、寺宝、記録、什物類一切を焼失、その後の三十九年間、寺号は廃止され荒地と化したが、寛文二年(一六六二)大宮市万年寺六世、熊巌呑藝大和尚が当地に到り、旧名を復活させ、小庵を建立した。現在地に移転したのは此の時と伝えられ、旧地は田畑として開墾され、現今は住宅地に変貌したが、永く「東陽寺屋敷」あるいは「寺屋敷」に呼びならわされていたと聞く。その後も延宝五年、享保六年、罹災によって灰燼に帰す苦難に見まわれるが、時の住職、檀信徒は不撓不屈、東陽寺護持の道念によってこれを復興。各種の堂宇まで完備し、田畑を買い足し二町数反歩に寺域を拡張するなど、序々に往古の偉容再現するのである。享保八年のことと誌されている。
時代は明治大正昭和に引き継がれる中、特に農地解放、国道四号線開通にともなって諸堂宇、境内地ともに解体、狭少化を余儀なくされることとなる。
昭和五十六年住職として拙僧の入寺した頃はすでに雨漏り個所十指をこえるなど、老朽化はいかんともしがたく、私財を投じた修復も効を奏さず、ここに至って窮状を役員にはかり、檀信徒説明会を経て、昭和五十七年建設委員会を発足、五ヶ年間を原則として寄附金を勧募し建設に着手することになった。
完成は昭和六十一年十一月二十四日。諸山の老師を拝請し、晋山結制(大和尚になる式)並びに落慶法要が盛大かつ厳かに営なまれた。またこの日は、仏教国スリランカより仏歯寺管長、法務大臣閣下一行十二名が来寺、釈尊の仏舎利(御聖骨の分骨)が当寺本堂に奉安されたのである。
東陽寺の由来を顧みる時、粉骨砕身して護持にいそしまれた歴代住職、檀信徒各家の先祖諸霊の遺徳がしのばれ、感涙を憶えてならない。しかしまた現代に目を転じると、財源の乏しい当寺にしてかかる一大建設事業の円成を見たのは、他ならぬ敬仏崇祖の念厚き各檀信徒の尽力あればこそであり、胸の熱くなる思いである。この偉業を後世に伝えるべく、顕彰の一文を刻する次第である。
平成四年八月吉祥日
医王山東陽寺二十七世現住
禅徹永氏城謹白
新編武藏風土記稿
埼玉郡粕壁宿
東陽寺 禪宗曹洞派 足立郡片柳村萬年寺末 醫王山ト號ス 古ハ大寺ナリシカ 文祿年中燒失ノ後衰微セシヲ 寬永年閒熊巖トイヘル僧再建セリ 因テ是ヲ中興開山トス 同十九年十月示寂 鐘樓 萬冶元年鑄造ノ鐘ヲ掛 秋葉社 金比羅社 觀音堂 |
| 神社・お寺情報 |
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| 例祭日 |
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| 神紋・寺紋 |
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| 更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2026/02/22 07:41:39
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