奈良県奈良市高畑町468 鏡神社(南都鏡神社)の写真1
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 2.7

鏡神社(南都鏡神社)  (かがみじんじゃ)


奈良県奈良市高畑町468

みんなの御朱印

鏡神社(南都鏡神社)の御朱印1
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りょうた&ちえさん
2025年5月9日 00:00
鏡神社(南都鏡神社)の御朱印2
5
TENPOINTさん
2025年4月15日 00:00
鏡神社(南都鏡神社)の御朱印3
39
しみちゃんさん
2024年11月16日 00:00

鏡神社(南都鏡神社)の御朱印4
27
雅さん
2024年8月14日 00:00
鏡神社(南都鏡神社)の御朱印5
33
たーくんさん
2023年2月23日 00:00
鏡神社(南都鏡神社)の御朱印6
26
なおちゃんさん
2022年12月17日 11:42

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みんなの参拝記録

鏡神社(南都鏡神社)の参拝記録1
2
106
銀玉鉄砲さん
★★★ 参拝日:2019年3月24日 11:36
御朱印はいただけます。 新薬師寺の入口横に有る神社です。
天地悠久さん
参拝日:2020年5月19日 12:00
当社の起こりは、左遷されていた大宰府で反乱を起こした藤原広嗣が、肥前国松浦郡で処刑。怨霊神となったためにその地で祀られていた鏡神社から、「頭塔」近くの福智院に勧請されたたというもの。天然痘の流行により藤原四子が相次ぎ病死、代わりに台頭したのが橘諸兄。吉備真備や僧玄昉を側近に付け、広嗣を大宰府へ左遷。広嗣は疫病流行や政治の乱れを、諸兄らが原因であると聖武天皇に上表、同時に挙兵。天平十二年(740年)のこと。結局反乱軍は敗北、鏡神社の地で処刑。その社に二ノ宮として祀られています。乱後、広嗣は怨霊神とされ都は恐怖に。当初福智院に勧請されたのは、玄昉が筑紫で急死、遺体は飛散し興福寺へ、首は頭塔、腕は肝塚町、眉と目は大豆山町へ飛来。広嗣の祟りであると考えられたようです。現社地遷座は、平安後期に新薬師寺再興の際に鎮守社となったことによるもの。広嗣の旧屋敷が側にあったため、その跡地に創建されています。

鏡神社(南都鏡神社)の参拝記録3
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139
じゃすてぃさん
★★★ 参拝日:2019年11月23日 13:25
村社。 肥前国唐津からご勧請されたとのこと。 鳥居参道は東側。 自転車でのお詣りでしたので、駐車場の有無は不明です。 御朱印はこちらと摂社の比賣神社をいただけました。
ぽんきちさん
参拝日:2025年6月28日 13:07

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基本情報


※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 奈良県奈良市高畑町468
五畿八道
令制国
畿内 大和
アクセス JR桜井線京終 徒歩21分
御朱印授与時間
電話番号
FAX番号
公式サイトURL http://www1.kcn.ne.jp/~fujishrs/
御祭神 天照皇大神
藤原広嗣公
地主神
創建・建立
旧社格 村社
由来 若き日の広嗣公の歌(万葉集巻8 1456)。
桜花を娘子に贈りて、「この花の ひとよのうちに 百種(ももくさ)の 言ぞ籠(ことぞこも)れる おほろかにすな」。

藤原広嗣公は、式部卿左大臣宇合(うまかい)の長男で、母は右大臣石川麻呂の娘であった。幼いころより文武の才に長け、管弦歌舞の道、天文陰陽の技に精しかった。従五位大倭守、右近衛少将を経て、天平10年大宰少弐(だざいのしょうに)に任ぜられた。

この頃、橘諸兄(たちばなのもろえ)が右大臣となり、長らく唐で修行していた僧玄昉と下道真備(吉備真備)が朝廷の要職に登用され勢力を得ていた。しかし、地震、疫病などで都は乱れ、さらに、玄昉は非行多く僧にあるまじき所行があった。

純清・剛直な広嗣公はこれを黙視できず、天平12年(740年)、災いの起こる悪い政治の原因は、玄昉や真備にあるとして、その上表文(じょうひょうぶん)を天皇に送り、自らの考えを採用するようにもとめた。しかし、朝廷はただちにこれを謀反(むほん)と断定し、7日後、広嗣公を討つ軍が出発した。

同9月、広嗣公はやむなく兵を集めて遠賀郡(おんがぐん)に軍を構えた。広嗣公率いる大宰府軍は広嗣公、綱手、多胡古麻呂など1万、官軍は大野東人、紀飯麻呂、佐伯常人、安部虫麻呂など1万7千であった。10月上旬、広嗣軍は官軍と筑後板櫃川(いたびつがわ)に戦い、たちまち破られ肥前長野村にて捕えられ、松浦郡にて討たれた。

義志かなわず、反乱の汚名をこうむって討ち取られたことで、広嗣公の怨霊があらわれたという。

その後僧玄昉は天平17年筑紫に配せられたが、観世音寺落成式に臨んだ時、急死した。世の人はこれを広嗣公の祟りとした。真備もまた孝謙天皇が即位してから肥前に左遷された。

この左遷に際し、広嗣公の霊を祀り鏡尊廟(現唐津市の鏡神社)を建てて崇められた。それ以降、霊信仰が世にあらわれた。かの頭塔伝説においては、玄昉が築紫に急死するやその遺体は奈良の地に飛散して、興福寺の境内に落ち、首は頭塔(ずとう)山に、腕は肘塚町(かいなちょう)に、眉と眼は大豆山町(まめやまちょう)に飛来したとの口碑が伝えられている。これは、広嗣信仰が背後にあったからである。

現社地は広嗣公の邸宅跡との伝えもあるが天平時代後期に新薬師寺復興の際、その鎮守神としてここに勧請された。末社火雷天神は、不空院境内にその御陵があるのを祀ったものと思われる。

本内容は「鏡神社小誌」昭和56年10月15日再訂から抜粋、加筆した。参考)吉川真司「聖武天皇と仏都平城京」講談社、坂上康俊「平城京の時代」岩波新書。
神社・お寺情報
例祭日
神紋・寺紋 未登録
更新情報 【 最終 更新者】SBT
【 最終 更新日時】2020/03/08 19:25:38
 
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