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参拝日:2018年2月7日 00:00
本来のご祭神は名草戸畔、神武天皇に敗れ八つ裂き(三つ裂き)にされたうちの頭がこちらに葬られました。「おこべさん」はもちろん姫の頭のこと。胴は杉尾神社、足は千種神社に葬られています。 神名を変えているのは朝廷または紀氏に隠すためだったのかもしれません。 参拝者を温かく迎える親切丁寧な案内、境内の清浄さ、お参りして気持ちの良くなる神社です。
★★★★★ 参拝日:2023年9月16日 00:00
参拝日:2022年10月8日 14:47
★★★ 参拝日:2022年6月4日 12:00
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住所 | 和歌山県海南市小野田字城山917番地 |
五畿八道 令制国 |
南海道 紀伊 |
アクセス | わかやま電鉄貴志川線伊太祁曽 徒歩39分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 073-487-3285 |
FAX番号 | |
公式サイトURL | http://www.okobe.org/ |
御祭神 | (主祭神)宇賀部大神 (配祀神)荒八王子命 誉田別命 |
創建・建立 | |
旧社格 | |
由来 | 神社の古記録は、戦乱の世兵火に焼失して確たる典拠がなく、主神を究める資料は現存しない。しかし、宝治2(1248)年、神職小野田家所蔵の文書に、景行天皇の御代、山城国愛宕神社を勧請すとあり、古来、祭神三柱の中央祀神たる「宇賀部大神」を軻遇突智命とする説に符号することになるが、詳細については不明である。『紀伊続風土記』(天保10〔1839〕年)によると当社は、 「一村の氏神にて社殿壮麗なり・・・宮作及び境内の形状尋常村落の産土神とも見えす必古官知の神にして後世其神名を失いしなるへし」とあり、古くは由緒ある知名の神社であったが、乱世を経て衰微し、その神名さえ忘れ去られるに至ったのである。荒八王子神社は、もと現在地東方100mに、若宮八幡神社(誉田別命)は、もと南方400mの高倉山の中腹に鎮座していたが、宝暦4(1754)年4月6日、本殿新築の際、この地に合祀されたのである。それ故、昔は、宇賀部両大明神と称え、高倉山を上の宮、現地を下の宮とも呼ばれていたようである。一説に、神武天皇ご東征当時、紀北を支配していた豪族、名草戸畔の首級を祀るともいう。確証は得られないが、鎮座地城山(頂上に小野田城〈天正13(1585)年落城〉が築かれていた)と対峙する高倉山(若宮八幡・山王各社の旧跡)、その中ほど(神社南方150mの地点)から昭和29年に発見された旧石器時代(1万2千年前)のサヌカイト製有舌尖頭器(石材は大和地方採出という)等に秘められた謎がありそうな気がする。元来、頭の守護神、頭病平癒の神として尊崇されてきたが、現在では「おこべさん」の愛称で、学業成就や入試合格等で祈願する若人の数が増え、四季を通じて祈願者の後は絶えない。なお、御垣内、本殿の左右に古くから位置する太神宮(天照大神)・天神社(菅原道真)の由緒は不詳である。末社に山王神社・多賀神社・秋葉神社・弁財天神社・祇園神社があるが、山王神社を除く4社は、かの神社合祀令〔明治39(1906)年〕により、翌年8月各部落にあったのを合祀した。山王神社は、もと高倉山にあり、文武天皇御宇の棟札も残り、古くから山王信仰の対象となっていた。他に稲荷神社が末社の東側にあるが、これはもと西方50mに位置していたのを移したものである。当社にも神仏混淆の長い歴史のなごり神宮寺が現在の社務所付近にあった。享保年中官命で除かれて後、その建物は明治の中頃まで小学校(小野田分教場)として使用された。駐車場の西の田は、今も学校屋敷の名を残している。日本の村落において慣習的に維持されて来た神社祭祀の体系に「宮座」というのがある。当社の宮座に関する記録として、宝治2(1248)年「当社 座の事」とあるのは、歴史的にも古いものである。当時既に小野田家が神職として奉仕していたようで、「神主貞吉」の名が時の「譲状」というのに見えている。 |
神社・お寺情報 | |
例祭日 | 10月14日 |
神紋・寺紋 | 未登録 |
更新情報 | 【
最終
更新者】天地悠久 【 最終 更新日時】2018/02/12 10:44:28 |