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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
古来より当地は北部九州の要路に位置し、このために当社も朝野の崇敬篤く、祭礼法度を定めて社領十八所・末寺九坊と大いに栄えました。
鎌倉時代に入ると、建久5年(1194年)に東国の御家人である宇都宮重業(山鹿氏・麻生氏の祖)が源頼朝より当地を与えられ、藤原兼直(波多野兼直)に当社を奉仕させたといいます。
江戸時代に入り、黒田氏が筑前に入国すると、当地は筑前六宿(長崎街道)の起点・黒崎宿として整備され、慶長10年(1605年)に当社も福岡藩祈祷社・黒崎宿産土神に定められました。
爾来、歴代福岡藩主をはじめ、参勤諸大名の尊崇を受け、また上り下りの文人墨客等が数多く参詣しました。
特に幕末期・慶応元年(1865年)に尊皇派の公卿・三条実美が、政変により大宰府へ配流される際に、密かに当社に参拝し、維新回天の大願成就を願い和歌を奉納しております。
維新後は黒崎熊手50余町の鎮守神として益々崇敬され、現在では近隣住民はもちろんの事、広く北九州圏内からの参詣者で1年を通して賑わいます。
慶長8年(1603年)熊西にあった神社を黒崎のまちづくりのために、現在地の岡田町に御遷座した時に植えた銀杏です。
【黒崎十二景碑】
江戸中期に、黒崎を訪れた松尾芭蕉の弟子達(各務支考・広瀬惟然・向井去来・志田野坡)と地元黒崎の俳人達12名が黒崎の風景を詠んだ俳句の碑です。
【岡田宮神額】
宝永4年(1707年)に黒田藩・儒学者の貝原益軒が奉納した神額。
貝原益軒は、養生訓や大和本草・筑前国続風土記等を書いた江戸時代を代表する学者です。
【神も神額】
延享元年(1744年)に、香椎宮勅祭に勅使として下向された飛鳥井中将藤原雅重が、当社参詣時に奉納した神額。
【三条実美歌碑】
三条実美卿(のち太政大臣)和歌の碑です。
三条卿は慶応元年(1865年)1月17日早朝に土方久元(のち伯爵)を従え岡田宮に参拝され和歌一首を奉納しました。
【万葉歌碑】
奈良時代、万葉集に書かれている遠賀地方で詠まれた三首の和歌です。
「大君の遠の朝廷とあり通ふ
島門を見れば神代し思ほゆ」 柿本人麻呂
「天霧らひひかた吹くらし水茎の
岡の水門に波立ち渡る」 詠人不詳
「ほととぎす飛幡の浦にしく浪の
しばしば君を見むよしもがも」 詠人不詳
【黒田二十四騎図】
黒田藩初代藩主・黒田長政と井上周防・母里太兵衛・後藤又兵衛等、二十四名の有力家臣を描いた掛け軸です。
【環状の三鈴】岡田宮出土品・5世紀
環状の三鈴とは5世紀頃の青銅製の鈴で、現在日本全国で60個、九州では15個程度確認されています。
ほとんどが有力豪族の古墳からの出土品で、当社の環状の三鈴もご祭神の熊鰐が1500年前に大和朝廷から下賜されたものと推察されます。
【岡田宮ゆかりの人々】
・神武天皇
「御名は神日本磐余彦尊。
日向の高千穂宮にて志を立てられて東征を決意、非常なる艱難辛苦を乗り越えられ大和の橿原宮にて初代の天皇に御即位されました。」
・神功皇后
「御名は気長足姫尊。
社伝では三韓征伐の途次、崗県主・熊鰐の案内によって当社を親拝したといわれます。」
・黒田長政
「初代福岡藩主。
黒崎祇園山笠は長政が黒崎城主・井上之房に命じて、当社に祇園社を奉斎させたのが始まりと伝わります。」
・井上之房
「栗山利安や母里友信と並ぶ黒田家の重臣の一人です。
黒田家の筑前入国後は黒崎城主となって一万七千石を領し、黒崎の街を整備しました。」
・貝原益軒
「福岡藩の学者。
当社拝殿に掲げる「岡田宮」の神額は宝永4年(1707年)益軒の筆によるものです。」
・三条実美
「幕末の政界では尊皇派公卿の筆頭格として活躍しました。
慶応元年(1865年)に当社に参詣し、維新回天の大願成就を願い和歌を奉納しました。」

【 最終 更新日時】2020/02/09 09:57:59