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★★★★ 参拝日:2023年9月10日 14:00
★ 参拝日:2021年12月4日 14:40
★★★ 参拝日:2021年1月17日 08:11
★★★★ 参拝日:2020年9月11日 13:40
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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 | 埼玉県本庄市滝瀬1420 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス | JR高崎線岡部 徒歩35分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0495210350 |
FAX番号 | |
公式サイトURL | https://www.ryuganji.org/ |
御本尊 | 釈迦如来 |
宗派 | 天台宗 |
創建・建立 | 嘉禎三年(1237) |
由来 | 境内掲示板
立岩寺 滝瀬厄除大師、ぼたん寺 宗派 天台宗 総本山 比叡山延暦寺 宗祖 伝教大師最澄上人(天台宗を七八五年に開く、七六七~八二二) 寺名 滝瀬山正法院立岩寺 開山 慈覚大師円仁上人 (第三代天台座主、七九四~八六四) 開基 滝瀬三郎経氏(地頭)が約七百七十年前、鎌倉時代の嘉禎三年(一二三七年)に堂宇を建立 本尊 釈迦如来 (おしゃかさま) 仏教の教えを開かれた方で、その教えを書き記したのが「お経」です ・文殊菩薩 (本尊さまの右) すぐれた知恵をさずけてくださる仏さま ・普賢菩薩 (本尊さまの左) 願いごとをかなえてくださる仏さま 元三大師 (本堂左奥、厨子の中に安置、九一二~九八五) 正しくは慈恵大師といわれるが、お正月の三日に亡くなられたので元三大師と呼ばれている 厄除けの大師として一月三日には御開帳の護摩が奉修され、だるま市もたち参詣者でにぎわっている ぼけ封じ観音関東三十三観音霊場第三十番札所 長屋門の観音堂内には聖観音も安置されている 境内碑 本堂新築記念之碑 瀧瀬山正法院立岩寺縁起 抑當山は天台宗に属し総本山延暦寺直末なり 本尊は釈迦如来にして慈覚大師の開山と伝ふるも寺伝焼失の為不詳なり 人皇八十七代四條天皇御宇嘉禎三年当地々頭職滝瀬主人光直の子三郎経氏父菩提の為一宇を建立し父の法名をとつて正法院と名附けたり その子孫滝瀬丹次郎文明八年に至り焼失せし堂宇を再興して寺領を附せるも五十子合戦の折兵火に罹り堂塔灰燼に帰す 天正元年滝瀬丹介祖先の菩提を弔せし時更に再建せしが其の後も火災の為焼失す 元禄二年当山住職聚海願主となり假本堂を建立す 爾来二百数十年破損個所多く茲に檀徒一同相謀り本堂新築の大願を発し昭和三十二年二月起工同年十月佛天加護の下協力一致本事業を完遂せり尚当山に安置し奉る元三大師は霊験著るしく古くより檀信徒の尊信篤く厄除大師の名は世間の普く知る所なり 昭和三十二年十月 當山第十九世宮崎興瑩謹誌 配布書に記載 立岩寺の沿革 当山は正しくは滝瀬山正法院立岩寺といい、天台宗に属し、本寺は比叡山延暦寺で、慈覚大師円仁の開山と伝えられている。 鎌倉時代・嘉禎三年(1237)当地の地頭滝瀬主人正光直の子三郎経氏が父の菩提のため堂宇を建立し、父の法名をとり正法院と名づけり。後にその子孫・滝瀬丹次郎実経が、文明八年(1476)堂宇を再興したが、戦国時代に至り世の中は乱れ、五十子合戦の折り古河公方足利勢の宿営となり兵火に焼かれる。 天正元年(1573)滝瀬丹介は、草庵を結んで祖先の霊を弔っていたが、江戸時代・寛文八年(1668)に至り、伽藍を再興し、同年6月10日に東叡山(上野寛永寺)より立岩寺の寺号を賜わり、輪王寺宮一品法親王の寺号授与御達文と、一緒に贈られた元三大師御影、朱塗り三ッ重の大盃が残されている。天和年間(1681~3)にも火災にあい焼失、元禄二年(1689)仮の本堂を建立、二百七十余年を経て、昭和三十二年現在の本堂が竣工する。 山門は岡部陣屋のものを移したと伝えられている。 平成六年に客殿と庫裡を新築、平成十二年には長屋門(観音堂、資料館)を建設する。 |
神社・お寺情報 | ぼけ封じ関東三十三観音・第30番札所
ぼたん寺 新編武藏風土記稿 榛澤郡瀧ノ瀨村 立岩寺 天台宗東叡山末瀧瀨山正法院ト號ス 元ハ院號ノミニテ寺號ナシ 寬文八年東叡山末トナリシ時ニ今ノ寺號ヲ免許アリシ由 天和年中燒失シテ寺傳ヲ失ヘリト云 本尊釋迦 諏訪社 鐘樓 正德二年ノ鐘ヲカク 境内掲示板 むかしばなし 立石 (立岩寺の名の由来) むかし、滝瀬村のある畑のまん中に大きな石が一つ立っていました。高さは三尺(やく一メートル)ぐらいで、ちょうど地面に生えたような形をしてましたから、土地の人たちは「立石」とよんでいました。 ところで、この石は、畑のまん中に立っていて、農作業のじゃまになっていました。 「こまったもんだ。馬を使うにも使いづらくてしょうがねえや。」 畑の地主はなんとかしたいと思い、村人にそうだんをもちかけました。 「見たところそれほどでっかい石でもねえから、ほり出して畑のすみにでもかたづけるべえ」 ということになり、数日後、地主は村人四、五人にたのんでほり起こし始めました。半日ぐらいで仕事が終わると思ったところ、一日中ほっても底にとどきませんでした。次の日もほりつづけましたが、どうになりません。次の日も次の日も下へ下へとほっていきましたが、やはり底にとどきませんでした。 「いくらほってもこの石は、下につながってる。これじゃ一年中ほってもだめだんべ」 というわけでとうとうこの石をかたづけるのをあきらめました。 「あの石をほるとたたりがある」 とだれいうとなくいうようになりました。 この基地に移された 塔婆だといわれます。 二十数年前ほり出されてこの墓地に移された青石塔婆だといわれます。(戸塚西五郎氏墓地) |
例祭日 | |
神紋・寺紋 | ![]() |
更新情報 | 【
最終
更新者】thonglor17 【 最終 更新日時】2024/07/21 20:26:53 |