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★★★ 参拝日:2022年3月4日 15:31
【授与所】 御朱印:お気持ち
★★★★ 参拝日:2019年2月8日 16:35
雑司が谷七福神:大黒天
★★★ 参拝日:2018年3月16日 15:20
雑司が谷七福神:大黒天 【本堂内授与所】 たくさんのお守りやお札あり 御朱印:300円
★★★ 参拝日:2016年9月6日 11:00
雑司が谷七福神:大黒天 【授与所】 たくさんのお守りやお札あり 御朱印
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住所 | 東京都豊島区雑司が谷3-15-20 |
五畿八道 令制国 |
|
アクセス | 東京メトロ副都心線雑司が谷 徒歩2分 |
御朱印授与時間 | 9:00~17:00 |
電話番号 | 03-3982-8347 |
FAX番号 | |
公式サイトURL | https://www.kishimojin.jp/ |
御本尊 | 鬼子母神 |
宗派 | 日蓮宗 |
創建・建立 | 1578(天正6)年 |
由来 | 祀られている鬼子母神(きしもじん)のご尊像は室町時代の1561(永禄4)年5月16日、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地の辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神〈別称、お穴鬼子母神〉境内にある三角井戸)付近で像を清め、東陽坊(後に大行院と改称、その後法明寺に合併)という寺に納めたものである。
東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、ひそかにご尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされている。 その後信仰は益々盛んとなり、1578(天正6)年『稲荷の森』と呼ばれていた当地に、村の人々が堂宇を建て今日に至る。 現在のお堂は本殿が1664(寛文4)年徳川4代将軍家綱の代に加賀藩主前田利常公の息女で、広島藩主浅野光晟(みつあきら)に嫁した自昌院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、その後現在の規模に拡張されている。 1960(昭和35)年に東京都有形文化財の指定を受け、1976~79年にかけて江戸時代の姿に復する解体復元の大修理が行われた。 また、2016(平成28)年7月には国指定重要文化財になった。 鬼子母神は安産・子育(こやす)の神様として広く信仰の対象となっていますが、もともとの来歴には深い云われがあります。 その昔、鬼子母神はインドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城(オウシャジョウ)の夜叉神の娘で、嫁して多くの子供を産みました。 しかしその性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれました。 お釈迦様は、その過ちから訶梨帝母を救うことを考えられ、その末の子を隠してしまいました。その時の訶梨帝母の嘆き悲しむ様は限りなく、お釈迦様は、 「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と戒めました。 そこで訶梨帝母は初めて今までの過ちを悟り、お釈迦様に帰依し、その後安産・子育の神となることを誓い、人々に尊崇されるようになったとされています。 当山の鬼子母神像は、鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしているので、とくに角のつかない鬼の字を用い 「雑司ケ谷鬼子母神」と尊称しております。 日蓮聖人は御書のなかで「十羅刹女と申すは10人の大鬼神女、四天下の一切の鬼神の母なり。また十羅刹女の母なり、鬼子母神これなり」と述べられ鬼子母神を重視されています。 もともと鬼子母神信仰は平安朝の昔から一般的な信仰としてありましたが、法華信仰に生きる者、日蓮宗に属する者にとって、鬼子母神はただ単に子供を守る神であるばかりでなく、信者・宗徒の外護神として崇められています。 |
神社・お寺情報 | 法明寺の飛地境内
雑司が谷七福神:大黒天 〘鬼子母神御会式〙 例年10月16日、17日、18日 |
例祭日 | |
神紋・寺紋 | 未登録 |
更新情報 | 【
最終
更新者】けんぢ 【 最終 更新日時】2023/12/30 22:35:55 |