みんなの御朱印
自分の御朱印
まだ御朱印が登録されていません
みんなの参拝記録
自分の参拝記録
まだ参拝記録が登録されていません
みんなの動画
自分の動画
まだ動画が登録されていません
基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県春日部市南3-18-17 |
五畿八道 令制国 |
|
アクセス |
東武伊勢崎線一ノ割 徒歩9分 |
御朱印授与時間 |
|
電話番号 |
|
FAX番号 |
|
公式サイトURL |
|
御祭神 |
誉田別尊(応神天皇)
息長足姫尊(神功皇后)
武内宿禰 |
創建・建立 |
天正2年(1574年) |
旧社格 |
|
由来 |
境内碑
元新宿八幡神社由緒略記
[由緒・沿革]
鎮座年月日は不詳なれど口碑によると、正親町天皇の御代天正二年(一五七四)四月、当時の岩槻城主北条氏の家臣、関根家が常に信仰していた宇佐八幡宮の御分霊を勧請して建立したと伝えられている。御霊をお迎えするに当たり、関根図書助は常に使用していた強弓を放ち、その矢の落下したところを神慮の叶った場所とし、この地を選んで糟壁本新宿の鎮守として神社をお祀りしたと云われる。
爾後新宿(江戸時代に粕壁宿本新宿と改む)の鎮守として鎮座ありしが大正十二年(一九二三)九月、関東大震災により、本殿・拝殿共に全壊せり。この時、本新宿の民家も被害が甚大で、神社の修復について住民協議し、神璽を一時大砂の村社八幡神社にお預けして、民家の復興後神社を再建してお迎えすることに決した。
ところが、その後本新宿地内に禍が再三あり、住民は、これを神様のお怒りと恐れ、協議の結果、民家の復興より先ずは神社の再建が必要と感じ工事に着手し、大正十五年(一九二六)現在の社殿を建立したと伝えられている。
境内掲示板
八幡社 御由緒
春日部市南三-一八-一七
□御縁起(歴史)
旧粕壁宿には三社の八幡神社が祀られている。当社はそのうちの一社で、「元新宿の八幡様」と呼ばれている。
口碑によれば、正親町天皇の御代、天正二年(一五七四)四月に北条氏の家臣関根家が常に信仰していた宇佐八幡宮の分霊を勧請して建立したことに始まり、神霊を迎えるに当たって、関根図書助が強弓を放ち、その矢の落ちた所こそ神慮に叶った所であるとして、この地を選んだという。
関根図書助については『風土記稿』粕壁宿の旧家者九佐衛門の条に、先祖は某郡内関根村を領したことから関根を称し、その後、真蔵宗氏なる者が兵乱を避けて当所に来て隠棲した。宗氏の没後、その子が父の菩提のため、墓所に庵室を結んで真蔵庵と名付け、後に真蔵院として一寺となった。真蔵宗氏から数代を経て元亀四年(一五七三)に関根図書助が「糟ヶ辺」の合戦で戦功を立てたことにより、北条氏繁から感状を賜ったという。関根村とは、現在の行田市関根である。また、同書に当社は「八幡社二宇 真蔵院持」とあり、真蔵院持の一社として記されている。また、もう一社は、江戸初期に粕壁宿が日光街道の宿駅として定められ、字新宿(元新宿)の住民の多くが町並の新宿組に転居した際、そちらに祀られた八幡社(下の八幡様)である。当所の南にあった真蔵院も同時期にこの八幡社の隣接地に移転した。 |
神社・お寺情報 |
青面金剛 寛政七乙卯年(1795)
水盤 天保四癸巳年(1833)
猿田彦大神 文政十三年庚春三月(1830)
境内碑
維時大正十二年九月一日正午前
代未聞ノ大震関東ヲ襲ヒ東京横
濱等崩潰軒ヲ竝へ火災四方二起
リ死十万ヲ算へ殆ト焼土ト化シ
悽惨言語ニ絶ス當地亦鎮守八幡
社ト組内四十四戸ノ大半倒潰シ
死一傷三耕地ノ亀裂ト陥没ノ状
筆紙二盡セス此秋ニ當リ氏子ハ
奮起力ヲ復興二注キ稍其緒ヲ見
ル翌十三年七月八幡社ノ造營ヲ
興シ營費五千ヲ以テ昭和二年六
月竣成セリ是レ敬神ノ念ト郷土
愛ノ迸シル所茲ニ紀念ノ碑ヲ建
テ之ヲ傳フ 粕壁瀧可笑撰書
昭和二年七月十五日 元新宿 |
例祭日 |
春祭:2月20日
例祭:7月15日
秋祭:12月2日 |
神紋・寺紋 |
未登録
|
更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2022/01/09 19:58:32
|
※神社やお寺など日本文化の専門企業が算出している日本唯一のオリジナルデータですので、ご利用になりたい法人様やマスコミの方々は
こちらよりお気軽にご相談ください。
近くの神社・お寺
近くのお城
神社・お寺検索
※は必須です
※「神社・お寺両方」を選ぶと、一度に全て検索ができ大変便利です。プレミアム会員限定の機能となります。登録は
こちら。