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基本情報
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住所 |
埼玉県ふじみ野市福岡新田107 |
五畿八道 令制国 |
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アクセス |
東武東上本線ふじみ野 徒歩31分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
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FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
大物主大神 |
創建・建立 |
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旧社格 |
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由来 |
境内掲示板
大杉神社
「船が着いたや吉野屋の河岸に早くトレトレおてもやも…」は、下福岡の船頭歌の一節である。
この下福岡の地は、先祖代々新河岸川舟運の舟頭を職業としている人々が多く居住していた村で、舟運が終わりをつげる大正時代まで、福岡河岸や古市場河岸の回漕問屋の荷物を取り扱う船待船頭として活躍していた。
数多くの船頭が住んでいたことから、舟運関係者の守護神として大杉神社が明治十一年(一八七八)祀られた。祭神は、常陸国河内郡阿波村(現茨城県稲敷郡桜川村)の大杉神社(本社)祭神である大物主大神の分霊を招請したもので、暴風雨などによる船の難破を防ぐ霊威があるため、船頭の信仰が厚かった。
また、拝殿裏に、神社が建設された年より五十二年前の文政九年(一八二六)に福岡村の吉野茂吉、同伊左衛門によって建立された「大杉宮 船玉宮 水天宮三社大明神奉鎮座 船中安全 村中安穏」の石碑があることから、この地は神社が祀られる前からの聖地として舟運関係者や村民より深く親しまれた場所であったことがわかる。
当社の拝殿内にはふじみ野市指定有形民俗文化財の奉納額がある。額の左右には、ご身体である天狗が配されており、下福岡の船頭や新河岸川・荒川・利根川・鬼怒川など関東一円の船頭・船大工など百人余りが、船の安全祈願のために奉納したもので、明治十八年九月吉日の日付が入っている。
祭礼は毎年九月二十七日で大正時代までは、船神楽や芝居が行われ大変賑わっていた。その頃まで、船頭たちは上り下りの船上から神社(大杉様)に向かって賽銭を投げ、運航の無事を祈っていたという。また、船頭衆の中から代表二人を選んで、年一回成田方面を経て利根川を渡って茨城県の大杉神社(本社)へ代参講に行き、その折、もらったお札をセジ(船中で船頭が生活する部屋)の神棚に祀っていた。
平成五年三月
埼玉県
上福岡市 |
神社・お寺情報 |
境内掲示板
大杉神社奉納額 [市指定有形民俗文化財]
社殿の中には、明治十八年(1885)九月吉日に新河岸川を通じて荒川・江戸川・利根川・中川・鬼怒川など関東各地の船頭約百人の名入りの天狗の面付き(2面)額が奉納されています。右側がからす天狗・左側が赤顔長鼻の天狗です。木製の奉納額は、縦100センチメートル、横215センチメートルの大きさです。
梅年句碑
「兎角して 来須に盤おかぬ、し九連哉」
明治時代に日本の俳壇において重きをなした俳人の一人、雪中庵梅年の句です。
梅年は、文政四年(1821)現在の川越市並木の小林家で生まれました。父親と早く死別し、下福岡にある母親の実家の原田家で育てられ、原田幸次郎と名乗りました。川越での足袋職人修行の後に、江戸深川で足袋店を営み、そのかたわら俳諧を学びました。
天保八年(1837)十七歳で松尾芭蕉の系譜を引く雪中庵対山の門下となり、明治七年(1874)に八世雪中庵を継承し、引退後は不白軒を名乗りました。
晩年の梅年は、東京と福岡村(現在のふじみ野市)をはじめ、川越南部から入間郡東部一帯の地域との間を往復して熱心に活動しました。
昭和四十六年一月、雪中庵梅年顕彰会と福岡町教育委員会(当時)は、当地方における俳諧の伝統文化を遺した梅年の功績を讃え、後世に伝えるために句碑を建立しました。 |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】ムンク
【
最終
更新日時】2022/05/01 10:45:22
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