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thonglor17さん
2024年2月25日 06:25
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基本情報
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住所 |
埼玉県東松山市美原町2-9 |
五畿八道 令制国 |
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アクセス |
東武東上本線東松山 徒歩21分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
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FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御本尊 |
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宗派 |
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創建・建立 |
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由来 |
新編武藏風土記稿
比企郡市ノ川村
淸岑寺 醫王山ト號ス 永福寺ノ末ナリ 開山ハ本山十二世ノ僧了山貫達ナリ 慶安元年十二月廿八日寂ス 本尊藥師ヲ安ス |
神社・お寺情報 |
境内碑
市ノ川薬師堂修復記念之碑
この薬師堂は、医王山 清岑寺卜号シ 永福寺ノ末寺ナリ 開山ハ永福寺十二世了山貫達ナリ 慶安元(一六四八)年十二月二十八日寂ス 本尊薬師如来ヲ安置ス(新編武蔵風土記稿より)
清岑寺薬師堂は、川越市から東松山市周辺までの地域に広がる中武蔵七十二薬師に数えられ、病を癒す御仏としてとりわけ眼病に御利益があり、目薬師とも言われている為昔の縁日には比企地区各所からの参拝者も多かったと古老より伝えられています。
この薬師堂も、昭和四十年頃に新築で建替えられましたが約五十年間の歳月と共に老朽化が進み、瓦の落下や雨漏りが懸念される状態となってしまった事から、役員の総意に より薬師堂修復委員会を発足、市ノ川地区住民を中心に、御堂修復の主旨をお伝えした所、大勢の賛同と浄財寄進を頂き、工事費用全てを賄う事が出来ました。
完成落慶を迎えるにあたり皆様方へ感謝の意と、先人達から受け継がれた信仰心、地域の歴史を後世に伝える可く此処へ刻む
平成二十九年一月二十二日
市ノ川薬師堂修復委員会 代表 前田 実
本寺 永福寺三十四世 鈴木 永一 代
境内掲示
【市ノ川薬師様の由来】
”市ノ川 医王山 清岑寺(せいしんじ)”薬師様は、 中武蔵七十二薬師の六十七番札所であり、通称《目薬師》と呼ばれ、地域の信仰を厚くしていた。
◎ 【清岑寺は、医王山ト号ス 永福寺ノ末ナリ 開山八本山十二世ノ僧 了山貫達ナリ 慶安元(1648)年十二月二十八日寂ス 本尊薬師ヲ安ス】 (三代将軍 徳川家光・ 後孝明天皇の時代)
所在地: 武蔵野国比企郡市ノ川村字東耕地779
旧
一、本堂 間口 二間三尺 282 センチ
一、 奥行 三間 282 センチ
一、境内 389坪 (1283m2) 542m2(1098m2 区画整理減歩 556m2)
一、現在見られる石仏 (およそ10体):3体尼僧の墓? 7体供養塔?
一、檀人 三人 管轄庁迄 九里廿六町拾間(新編武蔵風土寄稿より)
◎【市川薬師如来出世の契機】
平成2年1月7日 旧市ノ川 市友会恒例の薬師様清掃の時、本尊薬師如来の台座を外したところ、台座の中に薬師様の謂れが書き残されていた。 (前田実 野口眞一 雨宮昭重)
◎その謂れの原文は、《薬師如来ハ等先祖 野口蔵(?)?之助 唯徒立之御光大(台)座無之然處三代之孫野口瀬兵衛尉俊忠 如来仁悲歎無台座御光今造立之者也?且孝養先祖 且為自菩提也≫
夫?時貞享三丙寅天?十二月八日(1686年: 5代将軍徳川綱吉の時代)
この原文を埼玉大学国語国文学科の萩原昌好先生にお願いして読んで頂いたが、写真の不鮮明な映像と、台座の腐食によりはっきりと読めなかったが、おおよその意味は解った。
◎【薬師如来は、当家先祖の野口・・・?が造った。唯光背と台座がなく従らに(むなしく)立っていた。然る所、三代の孫野口瀬? 兵衛尉俊忠、如来に台座光背ないことを悲観して今之を造立したのである・且は先祖の孝養(供養)、且は、自らの菩提の為である。】
薬師様の台座を外し見聞した時が、市ノ川薬師堂修復工事の契機となり、今に至ったのである。 |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】管理者
【
最終
更新日時】2024/02/26 13:08:37
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