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基本情報
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住所 |
埼玉県さいたま市緑区松木2-7 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
JR武蔵野線東浦和 徒歩32分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
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FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御本尊 |
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宗派 |
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創建・建立 |
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由来 |
境内碑
松ノ木毘沙門堂霊園縁起
説話集に拠れば、今より壱千弐百五拾年位前、松ノ木の中心地である(現在地は松林であったと云う)当地を一ヶ年余掛けて開墾し、当毘沙門堂を新築し村人の集会所として使用、当時施主の人達は四世帯位だったと云う。施主の代表として、二人位で部落発展の為参ヶ月餘りも掛けて大和国におもむき、毘沙門天王を戴いて来て現在に至ったそうです。
其の後、今より五百年位前より墓地の話が出て其の話が成立し、現在の墓地が出来上がった訳だそうです。伝聞に拠れば、以前の墓地は、現在の墓地より西の方一七〇米位、江戸岩槻間道沿高台にあったという説が濃厚の様です。
これより毘沙門天王の由来について話して見ることにしましょう。雑誌「仏教行事歳時記七月号夏祭」に記載の記録に拠れば、毘沙門天王は大和國信貴山で、寺伝では第三十一代用明天皇二年(六世紀末)聖徳太子が蘇我馬子とともに物部守屋と戦った時、信貴山上に突如出現した毘沙門天王の加護によって勝利を得、尚信仰に拠ればあらゆる邪魔者を退散し、心を強く持ち、どんな困難に出合っても我慢して、強い精神と慈悲の心を持って何事も行えと教えており、右手に三叉戟を執り、左手に宝塔を、又この宝塔はこの中に充満する福を信ずるものと、家運隆盛、商売繁昌等願いに任せて与えてやるとの福徳の御印であって、毘沙門天王は二十八人の使者を自由自在に掌るという強さがあり、其の内の一人に、松ノ木毘沙門天王が加えられて居ると云う話が今尚私達の耳に聞こえてくるのであります。
又、観音様については、今より三百五十年位前に観音様を背負って来た宿無坊様が、当所に寝泊りしていて此の毘沙門天堂にも観音様を祀ったらどうかと云われて話がまとまり、当観音様を祀ることになったと云う。
又明治廿六年三月廿二日に松ノ木の人達が使う膳椀を松ノ木の人達全員の寄附金で購入した。其の寄附者の氏名等は今尚膳椀入れの箱の裏に記されています。それから又大正十五年秋に於て当本堂改築改造を行いました。発起人、肥留間謙三、肥留間時蔵、世話人肥留間友次郎、肥留間義平、肥留間儀八、布川傳右ヱ門、肥留間五郎吉、肥留間小四郎、肥留間紋次郎、の方々の努力に依り東側六帖を増築して現在迄来ましたが、此の度浦和市都市計画事業松木特定土地区画整理事業に当り旧本堂も解体して、ここに立派な毘沙門堂宇の新築、霊園が完成されました。そして毘沙門像、観音像二体と御厨子の修理塗装を行い、新装なった新堂宇へ遷座いたしました。尚六地蔵尊も風雨にさらされ破損がはなはだしい為元の台石を使用して新しい六地蔵尊を建立いたしました。誠に慶賀に堪えない次第であります。
堂宇建設、霊園整備にあたり、関係皆様方の御支持御支援はもとより暖かい御協力に依りまして、見事に毘沙門堂宇、霊園が完成されました事を謹んで関係皆様方と共にお喜び申し上げます。
平成元年十一月吉日
浦和市松ノ木毘沙門堂霊園
代表 比留間勝久撰文
(旧名卯平) |
神社・お寺情報 |
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例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2024/03/16 17:43:35
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