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基本情報
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1181年(治承4年)1月15日(旧暦12月28日)、平重衡などの南都焼討によって焼失。その後、1190年(建久元年)に再建され、1195年(建久6年)の落慶法要には源頼朝なども列席した。
1567年(永禄10年)11月10日(旧暦10月10日)から11月11日(旧暦10月11日)にかけて、東大寺大仏殿の戦いの最中に焼失。出火原因は諸説ある。当時の宣教師のルイス・フロイスは、三好軍中にいたキリシタン信徒が寺院仏像の破壊目的で放火したと記録している。『多聞院日記』には、
「今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻には大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。」—『多聞院日記』
と記されており、穀屋から出火し、法花堂、回廊と燃え広がったのち、11月11日(旧暦10月11日)午前2時頃には大仏殿が完全に焼失したと考えられる。その後、仮の仏堂が建設されたが、1610年(慶長15年)の暴風で倒壊した。
損壊した大仏の修復と大仏殿の再建を決意した公慶上人は、1684年(貞享元年)から勧進活動を開始した。大仏の修復は、1691年(元禄4年)に完成し、翌年に開眼供養が行われた。大仏殿の再建については、公慶上人の勧進活動への幕府公許が得られ、現存する大仏殿は、1709年(宝永6年)に完成し、同年3月に落慶法要が行われた。
また、1879年(明治12年)から1915年(大正4年)までに修理が行われた。これは瓦の重量に屋根が耐えられなくなったためであり、内部に鉄のトラスを渡したうえ、瓦の重なり部分を少なくして瓦の数を減らすなどの対処が行われた。しかし雨漏りなどの問題が生じ、1973年(昭和48年)から1980年(昭和55年)に再修理が行われた。この際は現代の技術で軽量化された瓦が採用され、瓦の重なりは旧に復した。なお、1898年(明治31年)12月28日に旧国宝に1952年(昭和27年)3月29日に新国宝に指定されている。
・大仏殿(国宝)・南大門(国宝)
・開山堂(国宝)・法華堂(国宝)
・二月堂(国宝)・転害門(国宝)
・鐘楼(国宝)・本坊経庫(国宝)
・廬舎那仏坐像(国宝)
・不空羂索観音立像(国宝)
・梵天 帝釈天立像(国宝)
・金剛力士立像(国宝)
・四天王立像 (国宝)
・日光菩薩 月光菩薩立像(国宝)
・執金剛神立像(国宝)
・誕生釈迦仏立像(国宝)
その他 多数

【 最終 更新日時】2021/10/31 02:08:18