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★★★★ 参拝日:2017年11月26日 00:00
★★★★ 参拝日:2022年5月22日 15:14
一日曇り空の予定が 気持ち良い青空が広がるお天気になりました 5月の御朱印の花印はあやめ
★★★ 参拝日:2021年5月23日 00:00
無料駐車場あり。社務所常駐。 催し物のステージがあります。 多くの人が訪れています。
★★★★★ 参拝日:2019年6月26日 14:00
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住所 | 埼玉県日高市新堀833番地 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス | JR八高線高麗川 徒歩17分 |
御朱印授与時間 | 8時30分〜17時00分 |
電話番号 | 042-989-1403 |
FAX番号 | 042-985-2794 |
公式サイトURL | http://www.komajinja.or.jp |
御祭神 | 高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)
猿田彦命(さるたひこのみこと) 武内宿祢命(たけのうちのすくねのみこと) |
創建・建立 | 未詳 |
旧社格 | 県社 |
由来 | 【頒布リーフレット】埼玉県日高市 高麗神社 ご案内
高麗神社の由来 郡の首長 高麗王若光 高麗郡が設けられた時、その群を治めたと伝えられるのが高麗王若光です。 『続日本紀』によれば、文武天皇の大宝3年(703年)に、従五位下高麗若光に王姓を賜ったとあります。 位を授けられ、さらに王姓を賜ったのは、若光が高句麗の王族であったためだと考えられます。 高麗神社の創建 安住の地は与えられたものの、国の中央からは遠く離れた未開の地、武蔵国の一角に移された郡民の困苦は深刻なものであったと思われます。 郡民の生活を託された若光は、郡民を督励し、祖国の技術を以って荒野を拓き産業を興して民生を安定させ、郡民敬慕のうちに波乱に富んだ生涯を終えたと伝えられています。 郡民がその徳を偲び、その霊を祀ったのが高麗神社の始まりです。 祭神である高麗王若光の子孫は代々当社を守り伝え、現在60代の当主が宮司を務めています。 同家には古くから伝わる系譜「高麗氏系図」があり、次のように書かれています。(前文の初めの部分は欠落しています。また系譜はすべて漢文体です。) これにより従来の貴賤相集まり屍を城外に埋め、且つ神国の例により霊廟を御殿の後山に建て高麗明神と崇め、郡中に凶あらばすなわちこれに祈るなり。 長子家重世を継ぐなり。 天平勝宝3年(751年)辛卯、僧勝楽寂す。 弘仁とその弟子聖雲同じくして遺骨を納め一宇を草創し、勝楽寺という。 聖雲は若光の三子なり。 これによって当社と勝楽寺の由来を知ることが出来ます。 およそ1,300年前に創建された社寺の由緒が、史書や文献によってこれ程明らかにされているのは珍しいことです。 勝楽寺は当社に近く聖天院の名によって広く知られる名刹で、新義真言宗智山派に属し、法灯は連綿51世に渡り継承されています。 その山門の傍らに「高麗王廟」があります。 砂岩を重ねた多重塔で素朴なものです。 白髭神社と出世明神 『新編武蔵風土記稿』によれば武蔵国高麗郡内には、白髭神社が30社ほどあり、これらは皆当社の分社であるとされています。 また、若光が晩年白髭をたくわえ、白髭様と呼ばれていたため、当社は白髭明神と称されたと言います。 ことの真偽は明らかではありませんが、高麗郡の鎮守として崇敬された当社と、当地における白髭(鬚)神社の濃密な分布がいつの頃からか新たな信仰を生んだのでしょう。 当社の御神徳は出世・開運と言われ、ことに近代以降の崇敬者には各界で功績を遺した人々が数多にのぼります。 これは故国の滅亡と未開地の開拓という未曽有の事態にも希望を捨てず、若光と共に刻苦勉励した高麗人たちの功績ゆえと言えましょう。 新編武藏風土記稿 高麗郡新堀村 大宮社 別當本山修驗篠井村觀音堂配下ニテ高麗山淸乘院大宮寺ト號ス 社傳ニ曰元正天皇ノ御宇靈龜二年高麗王ヲ始トシテ千七百九十九人ノ高麗人當郡ニ來住シ土地ヲヒラキ耕作ノ業ヲ營ム 聖武天皇ノ天平二十年高麗王薨ス 卽チソノ靈ヲマツリ高麗明神ト祟ム マタコレヲ大宮明神ト稱フ 王薨スル日鬚髮共ニ白シ仍テ白髭明神トモ祭シト云云 神體唐衣冠ノ坐像ニテ長一尺許 最古色ノ像ナリ 例祭三月十五日 流鏑馬神事及ヒ大般若ヲ轉讀ス 九月十九日獅子舞祭事アリ 當村及ヒ高麗本鄕高岡橫手久保臺梅原栗坪等八ヵ村ノ產神ナリ 當社ハ鎭座以來今ニ至マテ星霜千有餘年ナレハソノ興廢シルヘカラス 又事實ノ傳ヘヲ失ヒヌレハ詳ナラス 按スルニ續日本紀ニ從三位高倉朝臣福信ハ武藏國高麗郡ノ人ナリ 本姓背奈其祖福德唐將李勤ニ屬シ 平壤城ヲ拔キ國家ニ來歸シ 武藏ニ居ル 福信ハ卽福德ノ孫ナリ云云トアリ 社傳ニ云高麗王トハ福德カコトカ 或ハ其子ナトナルモ知ヘカラス 別當大宮寺ハ高麗王ノ子孫ニテ世々社司タリシニ 延久四年園城寺行尊 回國ノ頃社司右京進カ家ニ止宿シ 其折柄ノ勸メニ因テ竟ニ修驗ノ道ニ入テ名ヲ麗純ト改ム 是ヨリ第六世永純カ弟ナルモノ出家シ慶辨ト號ス 下野國足利鄕鷄足寺ニ住セシカ 建曆元年ヨリ承久二年マテ十年ノ閒心願ニテ一宇三體シテ書寫セシ大般若經六百卷ヲ當社ニ納メシヨリ例春三月轉讀ヲ務ト云 ソノ後廿二世良道ノ時東照宮當社ノ來因ヲ聞シ召シ 天正十九年社領三石ノ御朱印ヲ賜フ 修驗トナリシヨリ今ノ別當良純マテスヘテ三十三世ニ及ヘリ 社ノウチニ東照宮ノ御神體ヲ安置シタテマツル 神寶 音麗王守護之獨鈷 長五寸 太刀一腰 中身延ヘカネ刃ナシ 鐔赤銅切羽滅金 其外帶取ヨリ芝曳ニ至ル迄揔カナモノ滅金ニテ雀カラクサノ彫アリ 駒ノ角一個 長サ二寸一分根回リ五分五輪 大般若經一部 鷄足寺慶辨カ奉納セシ所ナリ 歷年久シクシテ散逸シ今四百卷餘アリ 五寸ニ六寸許ナル綴本シタテナリ 高麗王居跡 大宮明神社後ノ山上ニアリ 方一町餘ノ平地ナリ 土人ハコレヲ御殿跡ト云フ |
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更新情報 | 【
最終
更新者】thonglor17 【 最終 更新日時】2024/01/07 19:07:08 |