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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県さいたま市西区塚本2-180-1 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
東武東上本線ふじみ野 徒歩47分 |
御朱印授与時間 |
|
電話番号 |
048-624-9742 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
天照皇大神 |
創建・建立 |
不詳 |
旧社格 |
|
由来 |
境内掲示板
神明社 御由緒
さいたま市西区塚本町二 - 一八〇 - 一
▢御縁起(歴史)
当地は、かつて植田谷領二〇か村入会の秣場であった八貫野と呼ばれた地域の南西端に位置する。 八貫野の開発は、寛文年間(一六六一- 七三)のころから始まり、まず関東郡代伊奈氏が植田谷本村・飯田村・三条町村の割元名主小嶋家による開発を認め、飯田村の農民と小嶋家の門百姓が入植して萱野畑・林畑を造成していった。このうち小島家の門百姓が開発した地域は、植田谷本村の持添新田となり、飯田新田を間に北の上新田、南の下新田に分かれた。
当社はこの下新田に鎮座し、化政期(一八〇四-三〇) の『風土記稿』植田谷本村附持添新田の項に載る名主勘太夫(小嶋家)持の神明社が当社のことと思われ、その創建には名主とのかかわりが考えられる。 しかし、口碑には「五関村(桜区五関) の山崎家の氏神を当地の鎮守としてもらい受けて来た」とあり、また別の口碑では「隣の大久保村塚本(現桜区塚本) の神明社か ら分霊した」ともあり、その創建の経緯は判然としない。いずれにしても、新田の開発に伴って奉斎されたことは想像に難くない。往時の別当は当社の東隣にあった真言宗神明寺で、明治 初年に廃寺となった。
明治四十二年に当社は大久保村大字塚本字内東耕地の村社神明社に合祀されたが、昭和十一年に旧に復し、現在に至っている。
▢御祭神と御神徳
・天照大神・・・五穀豊穣、子授安産、開運隆盛
▢御祭日
・例祭(十一月二十八日)
▢荒川・びん沼川歴史散歩コース▢
神明社
神社がいつ祀られたかは明らかではありませんが、塚本の鎮守さまとして、地域のの人々の拠り所として大事にされてきました。江戸時代の塚本一帯は植田谷本村下新田と八貫野と呼ぶ入会地でしたが、明治22年(1889) に大久保村大字塚本(現・浦和市)となります。その後、 昭和10年に村の一部を馬宮村へ編入し、現在にいたっています。
塚本の夏祭り(天王様)は7月中旬、絵灯籠で飾られた境内を会場に屋台囃子や神輿が勢ぞろいします。華やかに飾られた屋台で、木ノ下流を伝える塚本囃子連のお囃子のリズムで祭りが始まり、若衆に担がれた神輿を先頭に、盛装の氏子総代、幟を持った子供たちが続き、地区内を巡行します。
境内東に保存される庚申塔2基は、江戸時代前期の天和2年(1682)11月に建てられたもので、高さ73cmで青面金剛像や三猿が浮き彫りされています。
散歩コースは、釣り人で賑わう「びん沼川」に沿って、北は九頭龍様を経て飯田新田方面へ続いています。
さいたま市教育委員会 生涯学習部文化財保護課
神明神社社殿改築紀念
天地の久しく世を幸え人を恵み給う皇祖天照大神を主神を仰ぎ祀れる當神明神社は我が郷土の象徴なり
祖先より遍く宏大なる神恩に浴し等しく崇拝して今日に到る 去る昭和四十五年塚本全域に亘り土地改良の事業興すや率先神社境内地を、拡張整備なし荘厳さ一際増したり 近時社殿の老朽化甚だしきを憂い自治会総会に諮り改築の議起こせるに郷民欣喜して賛同の意を表し気運彌が上にも昂がる即ち建設委員会を発足し賽を募り併せて工を渉む 協力一致ひと歳を経ずして華麗なる社殿落慶せり 嗚呼洵に壮挙と云うべし
向後郷民益々敬神の念を深め安寧平和を祈願する所以なり碑に刻して以て後世に伝う
平成四年四月創建
撰文 中島貞雄 |
神社・お寺情報 |
▼境内社:稲荷大明神、天満天神社、子安観世音等 |
例祭日 |
例祭(十一月二十八日) |
神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2020/08/16 11:59:13
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