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基本情報
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住所 |
埼玉県さいたま市中央区新中里4-17-25 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
JR京浜東北線与野 徒歩9分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
048-853-0200一山神社 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
倉稲魂命 |
創建・建立 |
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旧社格 |
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由来 |
境内掲示板
稲荷神社 御由結
さいたま市中央区新中里四ノ一七ノニ五
◇御縁起(歴史)
中里はJR京浜東北線与野駅から近く、地內の中央を国道一七号線が通る交通至便な所にある。太平洋戦争前は、田畑の広がるのどかな農業地帯であったが、戦後は、日本経済の発展とともに住宅地として開発が進み、昭和二十六年から二十七年にかけては与野中里県営住宅、同四十四年には与野中里公営住宅、同四十五年には与野中里第二・第三公営住宅と相次いで住宅団地が誕生し、また戶建住宅やアパートなども続々と建設され、発展著しい政令指定都市の閑静な住宅街として現在も成長を続けている。
当社は、この中里の鎮守として祀られてきた社である。
その昔、中里は隣接する下落合とともに、地元で「九人組」と呼ばれる寺尾一男家・寺尾一美家・寺尾藤治家・横田源三家・町田和正家・三枝正夫家・ 吉田忠史家・吉田尚晃家・関野茂明家の九軒の先祖が開いたところであると言い伝えられている。また、元来、当社は町田和正家の所有であったが、古くから「九人組」の鎮守として祀られてきた。文政九年(一八二六)編纂の「新編武蔵風土記稿」中里村の項にある「稲荷社 村の鎮守なり、村民の持なり」の記事はそうした状況を示すものである。また、境內に置かれた力石には明和二乙酉年(一七六五)の年号が刻まれており、当社は古い歴史を有している。
昭和九年、当地に国道一七号線が敷設されることになったが、その際に当社境內の一部が道路用地とされたため、これを契機に町田家では社殿及び境內地を大字に寄付し、以後は「村持ち」の神社として「九人組」の人々が管理を続けてきた。昭和四年に町田家が建設した茅葺きの社殿は、戦後屋根が傷んできたため、同四十八年に寺尾一男家の先代正二氏が私財を投じて社殿を再建した。現在は、宗教法人「稲荷神社」として、宮司は「一山神社 (中央区)」の宮司が兼務している。
◇御祭神と御神徳
倉稲魂命 五穀豊穣 商売繁盛
◇御祭日
初午 (三月第一日曜日)
夏祭礼(七月十四日 七月十五日に近い土、日曜日)
平成二十九年三月吉日記 |
神社・お寺情報 |
境内掲示板
力石(ちからいし)
カだめし・カくらべをした大きな石
カ石は米俵の重さ(米一俵は四斗で六〇kg)を標準として五斗石(七五kg) とか、六斗石(九〇kg)と呼ばれた。
石の上げ方にも片手さし、両手さし、肩上げ、などの方法があり、一人前の青年の基準として使われた。
遠い昔の人々は持ち上げる石の重さによって吉凶を占うということも行わ れていた。
石に刻まれた文字によると、明和二乙酉年(西暦一七六五年)二十六貫目 (九七kg)、他の石には、二十七貫目 (一〇一㎏)とあり、稲荷神社の歴史の古さを如実に物語り、この二つのカ石は永い間風雪に耐えてきたものである。
中里稲荷神社 |
例祭日 |
初午 (三月第一日曜日)
夏祭礼(七月十四日 七月十五日に近い土、日曜日) |
神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2021/08/09 19:46:01
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