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基本情報
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住所 |
埼玉県志木市上宗岡4-27-20 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
東武東上本線柳瀬川 徒歩38分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
049-251-7520 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
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創建・建立 |
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旧社格 |
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由来 |
境内掲示板
浅間神社と富士塚
建久四年(一一九三)征夷大将軍源頼朝は、諸将を富士の裾野に集めて、練武のため巻狩りを行いました。このとき、宗岡の里人は勢子の役を課せられましたが、その代償として年貢が免じられたので、里人たちは、これを記念して字大野の地に祠を建てて、富士浅間社を祀ったと言われています。
その後、長禄年間(一四五七~一四六〇) に荒川が大洪水を起こしたとき、祠が羽根倉(現在の 羽根橋の上流)に流れ着いたので、神がこの地にお住みになりたいとのご意思と考え、ここに祀 るようになりました。
明治に、富士講中が盛んとなり、境内に高さ十メートルほどの富士擬岳を構築し、登山道・烏帽子岩・釈迦割石などを設け、富士山から運んだ溶岩を配し、頂上に浅間大神を祀りました。
樹木を多く植えて、近隣の勝地となっていましたが、その後、大正時代の河川改修及び昭和四十八年の県道浦和所沢線の建設のため二度の移設で現在に至りましたが、消滅することなく残されたのは、講中の信仰の強さを物語るものです。
昭和五十七年七月一日
志木市教育委員会
境内碑
神徳之碑 埼玉縣師範學校敎諭中村忠誠撰
宗岡村崇祝富士山神尚矣相傳建久四年源右將大獵於富
士野課役夫於八州宗岡亦與焉右將嘉其勞爲減明年田租
里民大悦由是崇信富士山神漸深建祠里中祝之爾來數百
年祭祀㠯時寛文中修殿宇新之文化二年十二月富士山行
者身祿弟子日行青山之徒奉神璽自江戸高田未安之祠中
明治五秊本邨五世先達訓導池内政五郎與信徒謀築假山
㠯擬富嶽吉田祝師佐藤嗣根君亦賛其舉遠近聞之多來翼
功者數仭之山一朝而成十年里民例登富岳獲磽确石於岳
麓而還安之山下於是乎神物益備而里民崇敬之意加深矣
今茲戊戌將建石記其顚末來乞文乃據其言叙之係以辭曰
山巍巍兮石巌巌神霊沕穆兮尊嚴降福无彊兮其格不測民
效其誠兮以仰德
明治三十一年四月 東京 江口立郎書
境內碑
淺間神社遷祀碑 官幣大社氷川神社宮司正六位有賀忠義篆額
天孫國ヲ肇メテ億兆ニ臨ミ神祇ヲ崇敬シテ政敎ノ大本ト爲シ民俗是ニ由リテ敦ク國礎是ニ由リテ固シ古ヨリ稱シテ神州ト曰ヘルハ豈允ナラス乎
村社淺間神社ハ曩ニ羽根倉ニ在リ相傳フ長祿年間大野富士塚ヨリ之ヲ分祀セリト
近ク荒川ノ淸流ニ臨ミ古木欝蒼トシテ祠ヲ遶リ西隅ニ假山富嶽ニ擬セルモノアリ高サ數仭山上ニ二十餘神ヲ祀ル幽邃閑雅ニシテ樹姿石勢錯落趣ヲ成シ亦神域ノ一勝區タリ
大正中荒川改修ノ事アルニ會シ神域モ其ノ河道ニ中リ復ヒ祠ヲ此ニ存スルヲ得ス
十年三月氏子胥議シ地ヲ蓮田ニ相シテ之ヲ遷祀セント欲シ允ヲ請フ
官乃チ田一段八畝二十五步ヲ賜ヒ以テ之ニ充テシム廣サ舊ニ同シ又移遷費四千五十一圓ヲ給セラル
十五年鐵路ニ依リ川ヲ鑿チテ剩ス所ノ土砂八百四坪ヲ運ヒ以テ田ヲ埋メ假山ヲ築キ翌年神域ノ成ルニ迨ヒ一旦權ニ祠ヲ此ニ還シ尋イテ社務所ヲ建設セリ
後四年再ヒ工ヲ起シテ本殿及ヒ拜殿ヲ造營シ山相ヲ整ヘテ嶽ニ擬スルコト故ノ如ク別ニ無格社四祠ヲ境內ニ移シ之ヲ配祀セリ既ニシテ全ク功ヲ竣リ十二月一日初メテ遷宮竝ニ開山式ヲ擧ク遠近之ヲ聞キ賽者雲ノ如シ實ニ昭和七年ナリ
此ノ業ヤ夫ヲ役スルコト一千八百七十人費ヲ要スル八千八百餘圓七年ヲ閱シテ成ル其ノ勞費尠シトセス
而シテ官給足ラサル所ハ則チ僅々五六十戶ヲ以テ之ヲ負フ
是レ益敬神ノ孚深ク心ニ根シ而シテ傳統ノ美俗尙フヘキヲ知ルニ非ンハ詎ソ能ク此ノ如クナラン洵ニ神州ノ民ニ愧チスト稱ス可シ
頃氏子謀リテ碑ヲ建テントシ文ヲ余ニ請フ憶フニ先考政五郞深ク富士山神ヲ信シ此カ爲ノ首倡シテ擬嶽ヲ舊祠ノ側ニ築成シ崇敬最モ厚シ余不肖ト雖誼辭ス可カラス乃チ其ノ梗槪ヲ敍シ係ルニ銘ヲ以テス銘ニ曰ク
茲遷祠宇 茲改江流 水也有盡 神德千秋
昭和九年四月一日 宗岡村長勳七等池內富太郞撰 勳八等神岡善次郞書
境内碑
浅間神社移転記念碑
わが浅間神社は建久の昔から 我等の祖先が代々崇敬して来たが 嚮に国の荒川改修工事のため此所に遷祀された
然るに未だ幾何もないのに県道改良工事に当り 再び移転の止むなきに至った 神社役員等は再三その筋に計画変更方を願ったが許されず 遂に昭和四十四年八月境内地一六一四〇四平方メートルを金一阡四百八拾四万九阡弐百六拾円で買収に応じた 更に疑岳社殿等の補償金八百拾九万四阡弐百弐拾円を交付された
よって氏子一同相謀り 社殿疑岳は移転して古容を残し 社務所は羽根倉町集会所を兼ねて規模を大にして新築した 尚社殿を修理し神域の整理を図り玉垣墻壁等を構築し 昭和四十五年十一月竣工した 総工費金壱阡五百余万円を要した かくて境内は縮小したが面目を一新することが出来た
竣工に際し梗概を叙して石に勒し後に伝えることとなった
昭和四十五年十一月二十二日
池ノ内好次郎撰 |
神社・お寺情報 |
境内掲示板
羽根倉富士嶽
羽根倉富士嶽は、庶民の信仰である富士信仰に基づいて、明治時代に築造された富士塚です。
明治十三(一八八〇)年、現在の堤外地(荒川河川敷)に、約十メートルの高さの塚が築造され、昭和四(一九二九)年頃、河川改修事業により堤内に移転し、さらに、県道改修事業のため、昭和四十五(一九七〇)年に現在地に移転しました。
富士塚を築造した上宗岡丸藤講は、江戶時代後期、富士講行者として名高い食行身禄の弟子の高田藤四郎の弟子となった高野源次郎が、文化二(一八〇五)年に結成した講であり、文化文政期に隆盛した富士講の中でも早い時期に成立しています。
塚には、浅間大神をはじめ、小室浅間大神、烏帽子岩、泉瀧、小御岳石尊大権現など多くの神仏等が祀られ、黒ボク(富士山の溶岩)を使用し、胎內穴も設けられるなど、富士塚の条件を備えています。
二度の移転を経ながらも、熱心な信仰によって現在も整然と保たれており、近世からの富士信仰の様子をよく示す貴重な文化財です。
なお、平成二十四年に、崩落防止のため、コンクリートを用いて全面補修されています。
平成二十五年三月一日
志木市教育委員会 |
例祭日 |
境内掲示板
浅間神社行事予定
一月 元旦祭
二月 祈年祭、初午祭
四月 境内清掃
五月 道饗祭
六月 境内清掃
七月 例大祭、大祓い祭
八月 境内清掃
九月 八幡祭
十月 境内清掃
十一月 新嘗祭
十二月 釜〆、初詣準備 |
神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2022/11/20 11:14:02
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