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基本情報
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住所 |
埼玉県加須市伊賀袋47 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
東武日光線新古河 徒歩20分 |
御朱印授与時間 |
|
電話番号 |
0280-62-3837 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
|
御祭神 |
木花咲耶姫命 |
創建・建立 |
一一三三(建久四)年 |
旧社格 |
旧村社 |
由来 |
境内碑
富士浅間神社の由緒と伊賀袋の起源と変遷
祭神 木花咲耶姫命
当社は一九三三(建久四)年五月 征夷大将軍源頼朝が富士の裾野に大巻狩りを催した時 これに参加した頼朝の股肱の臣 下河辺の荘司 最初の古河城主 下河辺行平が駿河国の一の宮 富士浅間大神の分霊をこの地に勧請したものと伝えられる ここは渡良瀬川の自然堤防上にあり 清流に青松の影をうつして風光明媚 神社を祀るに相応しい所である 爾来 領主をはじめ 住民の崇敬きわめて篤く 隆盛をきわめた
一三三八(建武四)年 新田義重の孫 江田氏の祖 三河守賴氏より五代の裔 伊賀守政氏が足利尊氏との戦いに敗れてこの地に亡命 浅間神社に仮寓し 後に神官となって土着し 代々開発に努力した それまでは 単に「袋」と呼んでいた地名に 伊賀守の名を冠して「伊賀袋」と呼称するようになった 「袋」とは 河川の屈曲して流れる所に造成された袋状の台地で 地味豊かにして農耕に適しているため 古代より人の住居したところである 因みに当地からは 古墳時代初期の 和泉式土器が出土している
一四五五(康正元)年 足利成氏が古河公方となると 浅間神社は公方関基の向古河村 真光寺の管轄となった ある年 公方の奥方が病気になった時 平癒祈願成就のため 公方より神田を寄進された。同社には古來籠り堂に神湯の設備があって これに浴して祈願すると 難病も忽ち全快するといわれ 参籠者の絶えることがなかったという 夏と秋の大祭には参拝者に神酒や甘酒を饗し 芝居や相撲などを催して賑った
これまでにいくたびか社殿の新改築が行われたと思われるが その記録をとどめない
一八八一(明治十四)年六月 瓦葺きの本殿を新築して面目を一新し 同二十八年に村社に昇格した さらに三十九年に 八幡・香取の両神が合祀された
このたび氏子多年の念願がかなって 本殿を改築し 茅葺の拝殿をとりこわして新築し 共に銅版葺きにしたので 威容ととのい 境内の老松古柏のなかに一段と尊厳をそなえた
伊賀袋村は 古くは下河辺荘といわれ 下総国西葛飾郡に属し古河藩領であったが 明治四年の廃藩置県後茨城県となり 同二十一年 猿島郡新郷村大字伊賀袋となった 大正初期まで神社の裏に渡し場があり 古河へ通ずる主要な場所であった またこの辺りから河流が左折するので急流となり遡航する高瀬舟の船頭達に「おせんげんの難所」といわれて警戒されていた 当地は河川に接しているため 堤防の決潰によりたびたび水害を蒙った 大正初年 河川改修により川の西側となり 昭和五年七月県境変更 埼玉県北埼玉郡川辺村に編入された 昭和三十年耕地整理を実施し 同年の町村合併で利島村と合併 北川辺村となり 同四十六年 町制施行で北川辺町となって現在に至る
ここに社殿の新築を記念して その由來を碑に誌し 社前に奉納して 永く後世に伝えんとする所以である
清流千里枕河東 山紫水明田邑豊 鎮座星霜八百歳 郷人崇敬浅間宮
昭和五十三年四月一日 当所 氏子 江田家三十代 勲七等 江田稔也 号穂山 |
神社・お寺情報 |
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例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】zx14r
【
最終
更新日時】2024/10/06 09:51:23
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