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基本情報
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法金剛院は律宗・唐招提寺に属している。この寺は平安時代の初め、天長の頃( 830 )右大臣清原夏野が山荘を建て、死後、寺として双丘寺(ならびがおかでら)と称した。その頃、珍花奇花を植え、嵯峨・淳和・仁明の諸帝の行幸を仰いだ。殊に仁明天皇は内山に登られ、その景勝を愛でられ、五位の位を授けられたので、内山を五位山という。
次いで文徳天皇が天安二年( 858 )大きな伽藍を建て、定額寺に列し天安寺とされた。
平安時代の末、大治五年( 1130 )鳥羽天皇の中宮待賢門院が天安寺を復興し、法金剛院とされた。寺は五位山を背に中央に池を掘り、池の西に西御堂(現本尊丈六阿弥陀如来)南に南御堂(九体阿弥陀堂)東に女院の寝殿が建てられ、庭には瀧(青女の瀧)を造り、極楽浄土を模した庭園とした。その後、三重塔・東御堂・水閣が軒をならべ、桜・菊・紅葉の四季折々の美観は見事なもので、西行はじめ多くの歌人が歌を残している。又、西行は美貌の待賢門院を深く思慕していたと言う。
鎌倉時代になって円覚 十万上人が融通念仏を広め、寺門を復興したが、応仁の乱・天正・慶長の震災で、堂宇を失い、元和三年( 1617 )照珍和尚が本堂、経蔵等を建立されたが旧に復することが出来なかった。
― パンフレット「法金剛院」より抜粋 ―
・阿弥陀如来坐像(重文)
・僧形文殊菩薩坐像(重文)
・地蔵菩薩立像(重文)
・厨子入十一面観音菩薩坐像(重文)
・蓮華式香炉(重文)
その他 多数

【 最終 更新日時】2018/06/07 16:28:00