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★★★★ 参拝日:2017年9月22日 00:00
幼稚園と一緒になっているみたいです。 御祭りの用意でにぎわってました。
★★★★ 参拝日:2019年5月18日 13:35
参拝日:2017年10月6日 00:00
★★★★★ 参拝日:2024年8月10日 11:55
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住所 | 神奈川県横浜市金沢区富岡東4ー5ー41 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス | 京浜急行本線京急富岡 徒歩7分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 045-776-3838 |
FAX番号 | 045-773-4586 |
公式サイトURL | http://www.tomioka80000goo.org/ |
御祭神 | 応神天皇 ( おうじんてんのう ) 神功皇后 ( じんぐうこうごう ) 比売神 ( ひめのかみ ) 蛭子命 ( ひるこのみこと ) 天照皇大神 ( あまてらすすめおおみかみ ) |
創建・建立 | 建久2年(西暦1191年) |
旧社格 | 村社 |
由来 | [参拝のしおり] 富岡八幡宮は、三浦半島の北側の付け根、鎌倉とはちょうど背中合わせに位置する横浜市金沢区富岡東に鎮座しており、御祭神は応神天皇、神功皇后、比売大神、蛭子尊、天照皇大神をお祀りしている。 このあたりは気候温暖にして海の幸の豊かな所で、遠く古代より人々が生活を営んでいた。集落を形成する平地のほぼ中央に、島のように海に突き出た形の良い小山を、神の降臨する山 (神奈備) として産土神をお祀りし、又生活の糧である海原をみはるかす海の守り神として崇敬を集めていたもので、当宮の起源は富岡の創始と共にあると云える。 寛永二年に、時の地頭豊嶋明重によって奉納された縁起書によれば、およそ八〇〇年前、建久二年 (一一九一年) に、鎌倉の右大将源頼朝が当郷鎮護の為、難波の摂津の蛭子尊 (現・西宮神社) の末社を勧請奉斎したのが始めとされている。 さらに縁起に見られる神話によれば、のち、安貞元年 (一二二七年) の祭礼当日、一人の僧が村の民家を訪れ白髪の翁に食を乞うた。翁は「祭礼当日なので麦酒が御座居ます。」と差上げたところ、僧は茅の一葉をとり、うまそうに啜り飲み、「実はわしは八幡なり、今日よりわしを祀れば、部落より悪魔を退け加護すべし。」と云って消えてしまった。この時より八幡様を併せ祀り、社名も八幡宮に改められたとある。この安貞元年は、鎌倉幕府が開かれて、幕府鎮護の為に鶴岡に八幡宮を御遷座してより三十五年目にあたり、又当宮の社家佐野家の初代佐野左ヱ門が鎌倉より着任したと伝えられる年に当たることから、鎌倉の鬼門の方の鎮護として、源氏の氏神八幡宮を併せ祀ったものと思われる。 以後武運の神として武門の信仰も厚く、正中二年には鎌倉の武将藤原貞康より大般若経六百巻が奉納され、又明暦二年に地頭八木但馬守より奉納の武運長久子孫繁栄の願文入りの梵鐘などが残されている。 又、応長年間の大津波で、隣村長浜千軒部落が全滅してしまった時、富岡は八幡宮の山に護られて無事であった事から、御神威のあらたかさを称えて『波除八幡』とも呼ばれる様になり、海神としての蛭子尊 (エビス様) の信仰とも相まって、海運関係の商人や漁師等を通じて広く江戸にまで信仰を集めた。 寛永の頃徳川家光は深川の埋立事業を行ったが工事は非常に難航し、当宮に波除の祈願をし、のち無事に工事が完遂したので、氏神として富岡八幡宮を勧請したのが深川八幡の初めと伝えられている。時の富岡の地頭豊嶋明重は家康より三代に仕え、家光の重臣であった事からも、深川埋立事業と富岡八幡宮御分霊とのいきさつが伺える。以後『正八幡宮』と称され、広く江戸からも参拝者が訪れ、日本橋からの『正八幡』の額を始め、深川仲町、芝など江戸の旧海岸線からの奉納品が多く遺されている。 社殿の造営は、天正、慶長、寛永などの棟札に、鶴岡八幡宮御造営の砌その他破損の度、時の地頭が行っている事が記されている。本殿内陣の扉は、社殿が丹塗であるのに対し布張り漆塗りで、大きなものを切ってはめ込まれており、鶴岡八幡宮御造替の砌移設されたものと伝えられている。 祭礼は、七月 (旧暦六月十五日) と九月 (旧暦八月二十五日) の二季あり、いずれも祇園舟、湯立神楽などの特殊神事を伝えている。 明治六年、村社に列各、同四十二年、村内の無格社伊勢皇大神宮を合併合祀している。 祇園舟 『祇園舟』とは、八百年以上の伝統をもって継承されており、例大祭の大祭式に引き続き行われる特殊神事である。 青茅で作った七〇センチ ×五十センチ 程の楕円形の舟に、お供え物として、折敷に小麦の粒を敷き、その上に大麦の粉で作っただんごを置き、麦麹で醸した甘酒をかけたものを載せ、舟縁には一年分十二本の御幣を並べ立て、中央には大きな御幣を立てて、沖合遠く流しやるもので、青茅の舟と御幣に、一年間の罪穢を託して沖合遠く流し遣る夏越の祓と収穫した麦の初穂を海の神にお供えし、五穀の豊穰と海の幸の豊漁に感謝するという要素が一緒になった神事である。 八幡丸、弥栄丸という、五丁櫓の木造の専用船で行われ、帰路は岸まで全速力競漕で帰ってくるという勇壮な御祭りで、宮の前の海岸が埋め立てられた今日でも、優雅な雅楽の音と共に、昔ながらに行われている。 湯立神楽 『湯立神楽』は、湯花神楽、鎌倉神楽とも呼ばれ、もともと鶴岡に於いて、職掌と呼ばれる人達によって奉納されていた神楽である。 職掌の制は明治になって廃止されたが、新編相模国風土記稿の鶴岡八幡宮の職員表の中の職掌八家の内に佐野の名が見られ、富岡八幡宮の社掌として勤めながら鶴岡八幡宮の職掌を兼帯していたものと思われる。 現在旧職掌家を中心に伝えられており、富岡八幡宮では九月の秋季大祭のほか、二月と十一月の初の卯の日に卯陪従の夜神楽として行われている。 江戸時代には個人の祈願にも湯立神楽が奉納され、芝赤羽町久留米様御屋敷内大々神楽の日掛講帖や嘉永年間に江戸の商人連より奉納の唐金の大釜なども遺されている。 以上 |
神社・お寺情報 | |
例祭日 | 1月1日歳旦祭(さいたんさい)2月上卯の日卯陪従(うべいじゅう)[祈年祭 (きねんさい)][湯立神楽 (ゆだてかぐら)]7月15日近い日曜日例大祭(れいたいさい)[祇園舟 (ぎおんぶね)]9月24日近い土曜日秋季大祭(しゅうきたいさい)[秋祭り (あきまつり)][宵宮祭 (よいみやさい)]9月25日近い日曜日秋季大祭(しゅうきたいさい)[秋祭り (あきまつり)][湯立神楽 (ゆだてかぐら)]11月上卯の日卯陪従(うべいじゅう)[新嘗祭 (しんじょうさい)][湯立神楽 (ゆだてかぐら)]毎月1・15日1・15日月次祭(つきなみさい) |
神紋・寺紋 | 左三つ巴 |
更新情報 | 【
最終
更新者】まっきー 【 最終 更新日時】2021/07/10 20:30:01 |