みんなの御朱印
(はるさん)
0 御朱印日:2024年5月15日 00:00 |
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(てるりんさん)
5 御朱印日:2024年4月27日 00:00 |
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(虎ふぁんさん)
18 御朱印日:2024年3月31日 10:49 |
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(ゴッシーさん)
8 御朱印日:2024年2月2日 13:07 |
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(めぐさん)
3 御朱印日:2024年1月21日 00:00 |
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(めぐさん)
2 御朱印日:2024年1月21日 00:00 |
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(めぐさん)
2 御朱印日:2024年1月21日 00:00 |
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(雅さん)
12 御朱印日:2023年11月8日 00:00 |
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(カツさん)
18 御朱印日:2023年10月3日 12:55 |
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(yuwakaさん)
18 御朱印日:2023年8月5日 00:00 |
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住所 | 和歌山県和歌山市和歌浦中3丁目4-26 |
五畿八道 令制国 |
南海道 紀伊 |
アクセス | JR紀勢本線紀三井寺 徒歩17分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 073-444-0472 |
FAX番号 | |
公式サイトURL | http://tamatsushimajinja.jp/ |
御祭神 | (主祭神)稚日女尊 息長足姫尊 衣通姫尊 (配祀神)明光浦靈 |
創建・建立 | |
旧社格 | 旧村社 |
由来 | 玉津島一帯はまた玉出島ともいわれ、いにしえ島山が恰も玉のように海中に点在していたと想像され、かの山部赤人の長歌に、「神代より然ぞ貴き玉津島山」と詠まれた如く、風光明媚な神のおわすところとして崇められてきた。玉津島社の創立は極めて古く、社傳によれば、「玉津島の神は、〝上つ世〟より鎮まり坐る」とある。稚日女尊は、諾・册二尊の御子であり、天照大御神の妹神に当らせられ、後世又の御名を丹生都比賣神と申し上げる。息長足姫尊は即ち神功皇后である。皇后が海外に軍をおすすめになられたとき、玉津島の神が非常な霊威をあらわされたため、皇后これに報われ御分霊を今の伊都郡かつらぎ町天野の地にお鎮め申し上げ、爾来玉津島・天野に一神両所に並び立ち、毎年天野の祭礼に神輿がはるばる玉津島に渡御する所謂浜降りの神事が應永の頃(1429)まで行われた。玉津島の神を尊崇せられた皇后は後に卯の年月にちなみ、御自身も合祀せられることとなった。衣通姫尊は、第十九代允恭天皇の妃で絶世の美人であられ、その麗しさは名のとおり「衣を通して光り輝いた」と伝えられ、又殊のほか和歌の道に秀でられたことはよく知られるところである。衣通姫尊は、第五十八代光孝天皇の勅命により当社に合祀せられた。これは天皇の御夢枕に尊が現れて、「立ちかえり またもこの世に跡垂れむ 名もおもしろき 和歌の浦波」との一首を詠じられた故事によるもので、これより玉津島の神は、住吉大神(攝津)・柿本大神(明石)とともに〝和歌三神〟の一つとして、朝廷はもとよりひろく一般文人墨客から崇められてきた。後世、後西・霊元・桜町・桃園・後桜町・後桃園・光格・仁孝天皇の御代においては、々「法楽和歌会」と称し、玉津島の神に和歌を奉納する歌会が宮中で催された。これら当社に奉納された天皇御宸筆になる御製御短冊は、重要美術品として保管されている。神社背後の小高い岩山は奠供山(標高33m、奠・供ともおそなえの意)と呼ぶ。即ち、玉津島はまた奈良・平安朝の聖武・稱徳・桓武三帝にもこよなく愛られ々この地を訪われ滞在せられた。所謂〝玉津島行幸〟である。とくに聖武天皇はこの山に登られ、『山に登りて海を望むにこの間最も好し。遠行を労せずして以て遊覧するに足る。故に「弱浜」の名を改めて「明光浦」と爲せ。宜しく守戸を置きて荒穢せしめることなかれ。春秋二季官人を差遣し玉津島の神・明光浦靈を奠祭せよ。』との詔勅を発せられ、これにより明光浦靈を併せお祀りすることになったものである。なお当社のもとの御本殿は慶長年間初代紀州藩主浅野幸長侯が造営されたものであるが、荒廃甚しく、幸い奇篤者(篠田博之・めぐみ様御夫妻ほか)の御浄財を得て、平成4年秋社寺建築の粹を施しその修復が完成し往時の絢爛たる御姿が再現されたものである。 |
神社・お寺情報 | 国史見在社 |
例祭日 | 4月13日 |
神紋・寺紋 | |
更新情報 | 【
最終
更新者】りぷ 【 最終 更新日時】2023/10/13 07:53:02 |