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天德山幸福寺
埼玉県久喜市菖蒲町河原井137
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(thonglor17さん)
おすすめ度:
★★★
0
41
参拝日:2024年1月6日 07:35
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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県久喜市菖蒲町河原井137 |
五畿八道 令制国 |
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アクセス |
JR宇都宮線新白岡 徒歩44分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0480851961 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御本尊 |
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宗派 |
曹洞宗 |
創建・建立 |
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由来 |
新編武藏風土記稿
埼玉郡河原井村
光福寺 曹洞宗白岡村興禪寺末天得山ト號ス 開山ハ本寺三世ノ僧存舜元龜二年三月寂ス 本尊地藏ヲ安ス
境内掲示板
久喜市指定有形文化財
円空作木造不動明王坐像
指定年月日 平成四年十一月三十日
所在地 久喜市菖蒲町河原井一三七
所有者 幸福寺
幸福寺は、元亀二年(一五七一)の開山と伝えられる曹洞宗のお寺です。
この木造不動明王坐像は、縦割材の割り放した面に荒掘彫刻する特徴で有名な、江戸時代初期の異色の造仏僧、円空(一六三二~九五)の製作によるものです。
この像は、三十五~四十年ほどの杉丸太材を縦半割りにし、その割り方ち面に簡潔・素朴に彫り出されています。髪は焰髪状で頭頂に宝髻状のものをいただき、左頬脇に弁髪を垂らしています。両眼を見開き、口に上下の牙をあらわした忿怒の顔をしています。身には条帛・裳をまとい、左手に羂索、右手に剣を持って岩座に座る不動明王です。
像の背面は表皮を剥いだ木肌をそのまま残し、底には鋸の切断面を残しています。
この像は様式・技法からみて、円空晩年の作品で、天和・貞享から元禄年間(一六八一~九五)頃の作とされています。
県内の円空仏は、東南部を中心に百六十体ほどが知られています。はじめて、久喜市で円空仏が確認されたことは、貴重であるとともに、円空の行動範囲を考える上で重要なものとなっています。
総高 六十五・三センチメートル
像高 三十九・八センチメートル
平成六年三月十五日
久喜市教育委員会
境内掲示板
幸福寺の皂莢
この古木の名は「サイカチ」という。
「サイカチ」は豆科の落葉高木で、枝や幹にトゲがある。夏(六月)には、黄色の花を咲かせる。木の樹齢は凡そ四百年と言われ、最近まで幸福寺の山門の役割を果していました。
サイカチの花と根は漢方薬の一種で「五香湯」にも使われ、調合された「五香湯」は、ニンドウ、コウボウ・コウブシ・カンゾにサイカチの花と根をまぜたもので、万病に効くといわれ大変評判がよかったと言われています。
幸福寺に残っている明治時代の「十方信者名簿」には、遠く東京府、浦和方面をはじめ県内各地から毎日「五香湯」を買い求めに来た名前・住所・病名が記録されています。
平成5年春建立
天徳山 幸福寺
境内碑
本多静六出生の地の碑
静六は慶応二年(一八六六)七月、河原井村(現・久喜市菖蒲町)の折原家に生まれた。家は代々里正をつとめた名家で祖父友右衛門は不二道孝心講の信者で道義を重んじ社会奉仕の念の強い人であっ
幼いころ腕白であった静六は近くの幸福寺の洞学和尚からしばしば貴重な訓戒を受けている。寺は白岡市の名刹曹洞宗興善寺の十九末寺の一つである。明治五年、学制が公布されると間もなく静六はこの寺に設けられた河原井学校に入学した。明治九年、父が急死し生活に激変が起るが、十三年には上京して島村泰家の書生となった。泰はもと岩槻藩黌遷喬館の学頭であり、当時は大蔵省に出仕していた。間もなく静六は泰のすすめで新設の東京山林学校に進学した。学科は専門学できびしかったが人一倍の猛烈な勉強の結果、卒業時の成績は抜群であった。このため、本多家から申し込みがあり、当主晋の長女詮子と結ばれることになり、姓を本多と改めた。本多家は旧幕臣で晋は彰義隊の頭取をつとめた人であった。
明治二三年、静六は志を立ててドイツに留学し、ミュンヘン大学で学位を取得して帰国、直ちに東京帝国大学農科大学助教授に就任し、間もなくわが国初の林学博士となり、のち教授に昇進した。以後、わが国における林学、造林、造園の第一人者として旺盛に活躍することとなった。
造林に関しては鉄道防雪林の始まりとして知られる青森県野辺地防雪林があり、その地には静六が揮毫した「防雪原林」の碑がある。水源林では東京都の奥多摩水源林ほか各地の水源林の造成にかかわっている。
造園で最初に手がけたのは東京の日比谷公園であった。この工事の折の「首かけ銀杏」のエピソードは世に名高い。以後設計した公園は、いずれも名所となり全国に分布して、静六はついに「日本の公園の父」と呼ばれるに至った。功績として更に特記すべきは「神宮の森」の造成である。大正四年、明治神宮の造営に際し、静六は森の設計につき植栽などに周到な配慮を施し、現在、世界に誇る見事な人工都市林出現の基礎を築いた。
郷土埼玉の為めには早くから育英事業に加わり、晩年にはその所有する秩父地方の広大な山林を県に寄付し、そこに生ずる純益の半分を本多奨学金として支給することとし、これにより多くの人材育成に貢献している。現在、旧中津川村にはこれを記念する「樹徳千載」の大碑がある。
学者としての静六には「本多造林学」二三冊を始めとして秀れた専門著書がある。その教壇生活は三七年に及んだ。早稲田大学にも出講し門下から俊秀が輩出している。
静六は啓蒙家としても名高い。わかり易い文章で綴った「人生の哲学」「長寿の秘訣」の書はいずれもロングセラーとして人々に親しまれた。「人知不老」を説き、その筆は晩年まで生気を帯びていた。生涯モットーとしていたのは「人生即努力」「努力即幸福」の二句であった。
昭和二七年(一九五二)一月、静六は八五歳の天寿を全うして世を去った。生涯深く交りのあったのは大隈重信、渋沢栄一、後藤新平、北里柴三郎らであった。
なお、この碑の建つ幸福寺は古くから学問寺として栄えた。奉安されている本尊の延命地蔵菩薩のほか薬師如来、久喜市指定文化財の円空仏のあることでも知られる。庭前のサイカチの木には静六にまつわる逸話がある。静六が学んだ河原井学校はその後、台学校、琢玉小学校と名を改め、現在の三箇小学校に至っている。
令和五年春彼岸
早稲田大学名誉教授 村山吉廣撰文
公益財団法人備中館理事長 阪谷綾子書 |
神社・お寺情報 |
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例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2024/01/06 21:06:34
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