みんなの御朱印
書き置き
(299さん) 5 御朱印日:2024年11月30日 00:00 |
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(299さん)
5 御朱印日:2024年11月30日 00:00 |
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(A.S.Y.さん)
44 御朱印日:2024年10月16日 00:00 |
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(あかさん)
27 御朱印日:2024年10月12日 00:00 |
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(ミヤリンさん)
20 御朱印日:2024年9月25日 10:30 |
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(ミヤリンさん)
40 御朱印日:2024年9月25日 10:30 |
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(pocomiさん)
28 御朱印日:2024年9月22日 00:00 |
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(まささんさん)
41 御朱印日:2024年9月20日 00:00 |
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(まーさん)
22 御朱印日:2024年8月25日 00:00 |
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(まーさん)
7 御朱印日:2024年8月25日 00:00 |
自分の御朱印
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狐のおみくじを買いました。
大吉😆😆😆😆😆😆😆😆😆😆😆😆😆😆😆😆でした。
(🫠ちゅんさん) 日付:2022年11月13日 21:01 |
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※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 | 愛知県豊川市豊川町1 |
五畿八道 令制国 |
東海道 三河 |
アクセス | 名鉄豊川線豊川稲荷 徒歩5分 |
御朱印授与時間 | 9:00~16:00 |
電話番号 | 0533-85-2030 |
FAX番号 | 0533-83-0887 |
公式サイトURL | https://www.toyokawainari.jp/ |
御本尊 | 千手観世音菩薩 |
宗派 | 曹洞宗 |
創建・建立 | 嘉吉元年(1441年) |
由来 | 圓福山妙嚴寺の歴史は寒巌義尹(かんがんぎいん)禅師を抜きにして語ることは出来ません。
寒巌禅師は第八十四代順徳天皇の第三皇子として京都の北山にお生まれになりました。 出家得度当時は天台の教学を学ばれておりましたが、後に越前の日本達磨宗にて禅に参じ、さらに文暦元年(西暦1234)の頃、宗風一世を風靡していた日本曹洞宗祖道元禅師を宇治の興聖寺に尋ね、親しく膝元に参ずることおよそ十年、御年二十六歳の時道元禅師の法をお嗣ぎになりました。 寛元元年(1243)「時世を救う」の大願心を発して当時宋代の中国へ渡り諸山の名刹を行脚、諸名徳に歴参して仏法の深義を究められました。建長六年(1254)に帰国された折りには師道元禅師はすでになく、永平寺は二世・孤雲懐弉禅師の代になって居りました。その後寒巖禅師は宇治・興聖寺にて道元禅師の語録を編纂集成されました。 弘長三年(1263)語録を携えて再び入宋、諸山を尋ね道元禅師語録の跋文を受けられ、文永四年(1267)に帰国、筑前博多の聖福寺に身を寄せられました。 その後は宇土郷に三日山如来寺を創建、つづいて飯聚寺を開いて大悲像を安置、建治二年には熊本は釈迦堂村に青堤山極楽寺を開き、同年五月、自ら筆をとって 幹縁文を草し、四方に勧進して浄財をつのり、白河・綠川の難所に大渡橋を約一年半を費やして架設、弘安六年その大渡橋畔に大梁山大慈寺を創建、また弘安七 年には飽託郡の海辺に約200ヘクタールもの農地を干拓、開墾される等、「時世を救う」の大願は一つずつ成就し、その数重なる衆生済度の実績は九州一円は 言うに及ばず、遠く鎌倉の将軍の元へ、また天皇の在す京都にも伝わるものでした。 永仁七年(1299)八十三歳にして大慈寺をお弟子に譲り、正安二年(1300)八月二十一日、八十四歳の天寿を全うして御入滅せられました。寒巌禅師のお墓は大慈寺、如来寺及び浜松普済寺にあります。 |
神社・お寺情報 | 日本三大稲荷(諸説有)
札所:東海三十六不動尊17番 東海百観音 結願寺 三河新四国八十八ヶ所霊場番外 【平八郎稲荷の伝説】 豐川吒枳尼眞天を豊川稲荷と称する因縁は冒頭でご説明した通りです。 「いなり」とは「イナノリ」の音便で、ノリは実登の義で、豊年を意味して稲荷と書くわけです。 また、豐川吒枳尼眞天は世に「平八郎稲荷」とも称せられています。以下にその理由を御紹介しましょう。 東海義易禅師が妙嚴寺開創の時、一人の老翁があらわれ、「お手伝いをいたします」と禅師の左右に侍してよく働き、自ら平八郎と称していました。 老翁は一つの小さな釜を持っているだけで、ある時は飯を炊き、ある時は菜を煮、又ある時は湯茶を沸かし、しかも幾十人幾百人を展待するのにもこの不思議な釜一つで間に合いましたので、その神通に驚かないものはありませんでした。 そこである人が一体どのような術を使っているのかと尋ねると、平八郎はにっこりと笑って 「私には三百一の眷属がありますので、どんな事でも出来ないということはありません。又どんな願いも叶うのです。」と申しました。 この不思議な老翁は、開山禅師が遷化されてから忽然と姿を消してしまいましたが、あとには翁が使っていた釜だけが残されていました。この因縁により世に平八郎稲荷と称えられるようになりました。 この平八郎稲荷と三百一の眷属に対しては、年二度の大祭の時、儀式中に眷属供養の厳粛な秘法加行を伝承的に執行しております。 |
例祭日 | |
神紋・寺紋 | 未登録 |
更新情報 | 【
最終
更新者】ちーちゃん 【 最終 更新日時】2024/12/18 16:46:55 |