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五輪マークが入った限定書き置き御朱印です。
聖火の主発地だったらしく御朱印には予定の判子が捺されています。
まだ少し残っていましたので興味のある方は早めにお参りを!
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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 | 愛知県瀬戸市深川町11 |
五畿八道 令制国 |
東海道 尾張 |
アクセス | 名鉄瀬戸線尾張瀬戸 徒歩8分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0561-82-2764 |
FAX番号 | 0561-82-2839 |
公式サイトURL | http://seto-fukagawashrine.com/ |
御祭神 | 天之忍穂耳命 (あめのおしほみみのみこと) 天之菩卑能命 (あめのほひのみこと) 天津日子根命 (あまつひこねのみこと) 活津日子根命 (いくつひこねのみこと) 能野久須毘命 (くまぬくすびのみこと) 多紀理毘売命 (たぎりひめのみこと) 多岐都比売命 (たぎつひめのみこと) 市寸嶋比売命 (いちきしまひめのみこと) |
創建・建立 | 宝亀2(771)年 |
旧社格 | 県社 |
由来 | 神社の創建と歴史背景 深川神社境内には、石室の中心が約4m四方の横穴式円墳がある。この古墳からの発掘物は現存していないが、石積みの方法から6世紀頃のものと推定されている。古墳の存在は、この場所が辺り一帯を治める長をお祀りしていた「聖域」であったことを示している。また、この地区は良質な陶土に恵まれていることから、土器等を作って生活する集団の中心的な場所であったと言われている。 奈良時代、ここ尾張は、時の政権大和朝廷との繋がりを保つため、宝亀2年(771)に朝廷・藤原氏縁の天津神(あまつかみ=天に住む神々)をこの地に勧請(神仏を分霊して祭ること)、創建した。これが、延喜式(えんぎしき=延喜5年、藤原時平ほか11名の委員によって編纂された古代法典)に記されている深川天神の始まりである。このため、この地にあった国津神(くにつかみ=地に住む神々)は追いやられ、天津神が崇められるようになった。 神社と信長 室町時代、神仏習合しており、当神社にも他同様に神宮寺があった。この辺りは、特に社僧の力が強く、神社の社掌が中絶していた。当神社にも神宮時があった遺物として、梵鐘・永享10年(1438)があり、瀬戸市の文化財に指定されている。 応仁の乱以降、京都を逃れたきた藤原家一門の公家であった守栄は、藤原系の縁を頼りに転々とし、瀬戸村に至り、天皇家に繋がる神を祀る深川天神にたどり着いた。当時、ちょうど社司が不在で、読み書きのできる人を必要としていたことから、この地に落ち着くことになった。 永禄年間(1560年代)の8代宮司・護弘の時、信長が、鷹狩の際に参拝した折、美濃の斉藤龍興の刺客に襲われそうになったが、護弘の機転で難を逃れ、その御礼に七十五石の供米を賜ったと事蹟がある。その後、慶長元年(1596)に、同じく8代・護弘のとき、天神ノ森より出火し全焼。この火災で残ったのは、狛犬の吽型と梵鐘のみであった。 江戸時代以降から近代まで 尾張誌によると、「深川神社。瀬戸村にありて、今は、八王子の社ともうす。祭神は、五男三女の神なり」と、かつては、八王子社と呼ばれていた。現在の本殿は、文政元年(1804)8月から同6年(1810)12月にかけて15代宮司・守恒のときに建設された。本殿は、諏訪の名匠立川流の立川和四郎富昌(1782~1856)の作で、優美な彫刻が施され、瀬戸市指定文化財になっている。 また、文政7年(1824)には、陶祖・藤四郎の偉業を称えお祀りする陶彦(すえひこ)社が創建された。現在の陶彦社は、大正15年(1926)、21代宮司・武のときに遷宮が行なわれたもので、設計は、宮内庁に勤め正倉院などを手掛けてきた伊藤平二による。斬新で洗練されたデザインの貴重な建造物である。平成12年(2000)より、73年ぶりに深川神社と陶彦社社殿の修復工事を行い、平成14年(2002)10月に竣工奉祝祭を納め現在に至る。 神社と瀬戸陶業の祖 瀬戸の焼物の祖と言われる、加藤四郎左エ門景正(藤四郎)が、深川神社東隣の陶彦(すえひこ)神社に祀られている。藤四郎は、1190年代、現在の奈良近郊で、藤原元安という役人の家に生まれる。成人後は、久我大納言道親郷に仕え、五位の緒太夫であった。名は景正、別号は春慶という。深草(現・京都市伏見区)で土器類を作り、高麗(朝鮮)などの焼物を蒐集しその焼成方法を研究していた。貞応2年(1223)、道元禅師に随行し宋(中国)へ渡り、6年間焼物造りの秘法を学んだ。 帰国後は、焼物に適した良質の粘土を求め全国行脚。途中、瀬戸に立ち寄り当神社に参篭した際、「神社より巽の方角(南東)、祖母懐の地に、良土がある」という神のお告げを受け、良い木節粘土を発掘した。以後、瀬戸に窯を築き釉薬の開発に貢献するなどして瀬戸陶業の始祖となった。当神社にある国の重要文化財「狛犬」は、神のお告げに感謝した藤四郎が奉納したものとされている。 |
神社・お寺情報 | 延喜式内社 尾張国 山田郡 深川神社 |
例祭日 | 10月15日 |
神紋・寺紋 | ![]() |
更新情報 | 【
最終
更新者】じゃすてぃ 【 最終 更新日時】2021/05/19 00:02:36 |