片山神社 参拝記録 (ペルシャさん)

片山神社の参拝記録(ペルシャさん)
片山神社は名古屋市東区にある神社で、延喜式神名帳にある「山田郡 小一座 片山神社」に比定されている神社だ。以前はすぐ近くの片山八幡と共に式内社・片山神社の論社だったが、いまは何故か片山神社の方が式内社と称している。 祭神は蔵王権現(ザオウゴンゲン)、安閑天皇(アンカンテンノウ)、国狭槌命(クニサツチ)。 安閑天皇は27代天皇で、尾張出身の尾張目子媛と26代天皇・継体天皇の長子だ。次代の28代宣化天皇は弟にあたる。 継体天皇は元々は皇位を継ぐ立場になく、地方の領主のような立場だったが、先代の武烈天皇に皇太子がおらず、他の親族も他界していたため、遠縁の継体天皇が即位した。しかし、即位すると正妃だった尾張目子媛は正妃から降ろされて武烈天皇の姉を正妃とし、宣化天皇には子供がいたにも関わらず、以後、皇位は武烈天皇の姉との間にできた欽明天皇とその子が継承している。 この時、朝廷と尾張目子媛(尾張氏)の間に跡目争いがあったのは明白であろう。 妄想すれば、継体天皇も宣化天皇も天寿を全うして亡くなったのではないだろう。そんな悲運の孫を悲しんで尾張氏が安閑天皇を祭る社を作ったとしてもおかしくないが、それなら弟の宣化天皇も祭るはずであり、この社の他、安閑天皇を祭る社がないことから、安閑天皇を祭っていたとは思えない。 一般的に安閑天皇は神仏習合の際に蔵王権現と同一視されていたため、明治以降に神仏分離されると、蔵王権現を祀っていた蔵王社は安閑天皇を祭神としている。 従って、蔵王権現を祀っていた社は安閑天皇を祭神に変えている可能性が高いため、恐らく片山神社も当初は蔵王権現を祭り、明治以降に安閑天皇が加えられたのであろう。 なお、安閑天皇を蔵王権現と同一視したというのも蔵王権現の正式名称・金剛蔵王権現の「金」と安閑天皇の諡号である「広国押武金日天皇」の「金」が同じだからというたわいもないものだ。 「和漢三才図会」(1712年)や本朝諸社一覧(1685年)には、 「安閑天皇が崩御して4年後の宣化天皇3年(540年)、蔵王権現の総本山・金峯山に広国押武金日丸(安閑天皇)が現れ、「蔵王権現は安閑天皇である」と告げた」 と、もっともらしい伝承が書かれているが、役小角が金剛蔵王権現を感得したのは西暦650年頃であり、安閑天皇の没年(536年)から100年以上後であることから、明らかに後の創作であることが分かる。 もう一柱の祭神・国狭槌命(クニサツチ)の方はもっと複雑で謎だ。 尾張志(1844年)では片山神社の祭神をクニサツチとしており、蔵王権現とはしていない。「尾張国式社考」(江戸末期)では、 「此社、国狭土神を祀る由、神主・森盛之言り、いかにあらむ」 とあり、神主がこの社の祭神は国狭土神だと言っているとしている。 蔵王社の祭神が蔵王権現だという認識が江戸時代以前の尾張にはなく、蔵王社と呼ばれていた社の祭神がクニサツチでも不思議には思わなかったのかもしれない。 国狭槌命(クニサツチ)は「日本書紀」では天地開闢の最初にあらわれた神世七代の第二の神となっており、「古事記」では山の神・大山津見神(オオヤマツミ)と野の神・野椎神(ノヅチ)から生まれた神の一人となっており、扱いがかなり違う。 クニサツチを単独で祀る神社はほとんどなく、たいては神代七代の7柱の一つか、山を祀る神の配神とされている。 調べた限り、クニサツチを単独で祀る式内社は兵庫県にある色來神社くらいだ。ただ、こちらも本来は別の祭神だと思われる。 だが、名古屋で国狭槌命(クニサツチ)を単独で祀る神社がある。新栄にある八王子社だ。 八王子は一般的には天照大神(アマテラス)と素戔嗚(スサノオ)の間に出来た五男三女神を指すことが多いが、日吉神社が神仏習合で山王権現となり、その中核となる七社を山王七社権現と称した時、八王子山に祀られていた牛尾宮が八王子権現と呼ばれたことから、八王子社といえば五男三女神かクニサツチのいずれかを祭る社とされている。 八王子権現は山王七社権現の第四宮だが、本宮の奥宮であり、上代はこちらが日吉神社と呼ばれたというから、本来は日吉神社の祭神である大山咋神(オオヤマクイ)が祭神となるべきだが、「日吉社神道秘密記」(1719年)に 「八王子は国狭槌尊で、崇神天皇の御宇に八十万神を引率して金大巌の傍に天降った」 とある。金大巌は近江国滋賀郡の小比叡の東山にある。つまり、日吉神社がある場所にクニサツチが降臨したので、日吉神社のあった八王子権現社では祭神がオオヤマクイとクニサツチでごっちゃになっているのだ。 山王七社権現の一社だけが祀られるとは思えないが、かつては七社あったけど廃れて一社だけとなった可能性もあるし、突然、どこからか勧請された可能性もある。そもそも新栄の八王子社も、「寛文村々覚書」(1670年頃)には記載がないのに、『尾張徇行記」(1822年)には記載があるので、江戸時代中期頃に突然どこからか勧請されてきたことになる。 ただ、新栄の八王子社と違って、片山神社は古書では一環して「蔵王社」と記されている。 蔵王社と呼ばれて国狭槌命(クニサツチ)を祀る可能性もないわけではない。 御岳信仰の御嶽三座神の一座、八海山大頭羅神王が神仏分離で神社に祭られる時、祭神として国狭槌命(クニサツチ)を祀ったという。 御岳信仰も当初は蔵王権現を祭っていたというがら、当初は「御嶽山蔵王権現」が祀られ、祭神は御嶽三座神が祀られていたが、いつの間にか「蔵王権現」となり、祭神も蔵王権現となったが、三座の一座、クニサツチだけがなぜか残ったとなれば、蔵王社でありながらクニサツチが祀られていることになる。 社伝では創祀を709年とし、一説では684年に役小角(えんののづぬ)が創建したとも伝わっており、「愛知県神社名鑑」でも同じことが書かれている。 役小角は686年に岡崎の瀧山寺の前身である吉祥寺を開基したと伝わっており、その後にこの地に来て蔵王権現を祀ったということだろうが、岡崎の吉祥寺では薬師如来を祀っている。 岡崎で薬師如来を祀る吉祥寺を建て、名古屋に来て蔵王権現を祀る蔵王社を建てたというのはおかしな話だ。 そもそも、仏教色の強い蔵王権現を祀る社が式内社になるとは思えない。 神仏習合で蔵王権現となる前は別の神社名だっただろう。それが片山神社なのだろうか。 片山神社は江戸時代以前からから式内社・片山神社と称してしいたようだが、公的には認められていたとは言いがたい。 天野信景による尾張の神社研究書である「本国神名帳集説」(1707年)では「東杉村の蔵王権現が片山神社」と記しているが、天野は考証学的にこう述べただけで、「張州府志」(1752年)の前身である「尾張風土記」の編纂を藩主に命じられると、同僚の吉見幸和や真野時綱らの実証学的な手法を学んだといい、天野の死後に完成した「張州府志」では、 「片山神社 蔵王祠 式内社というが伝承なく不明」 とされている。つまり、東杉村にある蔵王権現が片山神社だという証拠がなかったのである。 郷土史家の津田正生が尾張藩に献上した「尾張国地名考」(1816年)では、瀧川弘美の説として、 「(式内社の片山神社は)大曽根八幡(いまの片山八幡)の社が是なり、社司は慶徳氏といい、この宮地は往昔の山田郡片山天神(祭神は大伴武日命)で元は大曽根村の産土神である。(中略)杉村の蔵王社が片山神社と名乗って式内社と言い始めたのは情けないことだ」 として片山神社は今の片山八幡だと否定している。 瀧川弘美は尾張志編纂関係者8人のひとり、瀧川又左衛門かその縁者だと思われるが、調べても分からなかった。 さらに藩命によって編纂された「張州府志」の再調査結果である「尾張志」(1844年)でも、 「国狭槌尊を祭る。式内・片山神社といわれているが、何の証拠もなく府志にも伝不明。この社は社家・森氏の遠祖が吉野にある 蔵王権現社に参拝して勧請したとある人の家の記録があるとある人が言っていたという話が本当なら式内であるわけがない。既に社があったのを後に吉野から勧請して蔵王権現に変えたのではないか。しかし、地形が片山だからというのであれば片山八幡も同じ地形であるので、それで式内社とは言いがたい」 として、式内の片山神社とは言いがたく、さらに蔵王権現を祭っているのは、宮司の森氏が吉野の蔵王権現をを勧請してきたと言っている。 これに似た話は「金鱗九十九之塵」(1830~1840年頃)にも記載されており、 「片山神社の本社は天津彦火瓊々杵(ニニギ)なり。神秘ありて国狭槌尊と申す。これは大和国三芳野の一宮、葛城金峯高鴨大明神と同座なり。ゆえに、片山神社の末社は富士浅間大明神なり。祭神は木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)でニニギの神后なり。第三の末社は白山大明神なり。祭神は菊理姫命でニニギの大祖母神なり。思えばニニギは神徳を国狭槌尊より伝えられた天照皇大神(アマテラス)と高皇産霊尊(タカムスビ)の孫神である。紀伊国の三熊野宮あり、大和国に三芳野宮あり。熊野宮の祭神は国常立尊(クニトコタチ)なので、芳野宮の祭神は国狭槌尊(クニサツチ)であるのは明白で、芳野と高鴨社と同体の当社は国狭槌尊を祭っている」 としている。 大和国吉野郡の金峯神社は昔年、蔵王権現を祭っていたというからここからの勧請であろうが、葛上郡の高鴨神社の祭神は味耜高彦根命で国狭槌尊でも瓊々杵でもない。国狭槌尊を祭るのは、祭神の瓊々杵の遠祖先だからというのも全く説得力がない。 恐らく、金峯神社から蔵王権現を勧請してきた時、既に片山神社では国狭槌尊を祭っていたので、このような解釈をしたのであろう。妄想すれば、最初に祭られていた神がクニサツチで、その後、蔵王権現となったのだろう。 このように公的な史料では東杉村の蔵王権現=片山神社というのは否定されていたが、一般ではやはり東杉村の蔵王権現は片山神社という認識だったようで、尾張藩士・高力猿猴庵(種信)が趣味で作った「尾張名陽図会」(1818年~1828年)では、東杉村の蔵王権現を片山神社として紹介している。 尾張藩士で学者の岡田文園と枇杷島橋の橋守役の野口梅居が販売目的で作った「尾張名所図会」(1844年)でも東杉村の蔵王権現は片山神社だと紹介している。 そして明治になって尾張藩の公的な記録がなくなると、東杉村の蔵王権現が片山神社だという認識が一気に広まる。 式内社を始めとする古社を考証した「神社覈録」(1870年)では 「片山は加多夜萬と訓べし。祭神詳ならず。山田庄東杉村に在す。今蔵王権現と称す」 とし、「延喜式神名帳」の注釈書である「特選神名牒」(1876年)では、 「天文宝永の棟札が共に片山神社となっているので當社が片山神社である証である」 としている。天文(1532年~1555年)は戦国時代中期、宝永(1704年~1711年)は江戸時代中期だ。 さらに、「名古屋市史」(1915年)には、 「文和の棟札には片山神社、応永、文亀、天文、天正等の棟札には片山蔵王権現」 とある。文和(1352年~1356年)は南北朝時代中期、応永(1394年~1428年)は室町時代初期、文亀(1501年~1503年)は戦国時代中期、天正(1573年~1593年)は戦国時代後期だ。 さらに「名古屋神社誌」(不詳明治期か?)では、棟札は「天文三甲午歳十一月五日」の一枚のみで、他には陶製高麗狗(高九寸文和正月片山神社」の銘有り」)とある。 これだけの史料で東杉村の蔵王権現が片山神社と記しているが、逆にこれで矛盾が浮き上がった。 「特選神名牒」「名古屋市史」「名古屋神社誌」で片山神社の根拠としている棟札は各書でバラバラで、共通している天文の棟札も、「特選神名牒」では「片山神社」となっているのに対し、「名古屋市史」では「片山蔵王権現」となっている。(名古屋神社誌では神社名なし)。 決定的なのは、「名古屋寺社記録集」(成立年不明)だ。これは大正時代に神社の棟札を書き記した資料だが、そこには片山神社の棟札として、天文、宝永、宝暦、延享、安永、弘化、天久、明治の8元号10の棟札が記してあり、それら全てが「片山神社」となっている。 これだけ大量の棟札を、当時現地調査していた尾張藩に当代の宮司が言わないはずがない。明治期になっていきなりこれらの棟札が発見されたのは不自然過ぎるし、全ての社名が片山神社というのも不自然過ぎる。 妄想すれば、これらの棟札は全てとは言わないが、ほとんどが偽物であろう。 棟札の根拠がなくなると、尾張志などで記載のあるように、片山神社は東杉村の蔵王権現か、大曽根村の大曽根八幡なのか区別するのは難しい。

おすすめ度: ★★★
参拝日:2021年2月21日 11:29

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