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基本情報
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住所 |
埼玉県熊谷市小江川1327 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
秩父本線大麻生 徒歩44分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0485361650 |
FAX番号 |
0485366291 |
公式サイトURL |
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御本尊 |
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宗派 |
曹洞宗 |
創建・建立 |
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由来 |
新編武藏風土記稿
男衾郡小江川村
保泉寺
同宗同末(禪宗曹洞派野原村文殊寺末)東方山ト號ス 本尊藥師ヲ安ス 開山玉岑宗彝和尙ハ本山四世ノ僧ニテ弘治二年十一月九日化ス 中興開基ハ稻垣若狹守重太ニテ法名洞仙院堅剛淸心萬治元年四月廿三日卒ス 重太ノ事ハ須賀廣村陣屋跡ノ條ニ出シタレハ合セ見ルヘシ 天神社 稻荷社 辨天社 地藏堂
境内碑
保泉寺本堂改築記念碑
當寺曹洞宗東方山保泉寺は天文末年(西暦一五四九年)の開創である
開山は本寺野原文殊寺四世王岑宗專禅師である 開基は徳川家直参譜代大名稲垣若狭守重太公で嘗て大阪夏の陣合戦に武勇大功有り爾来文武両道に優れ度々東照会に拝謁し親しく賞讃された偉大なる戦国武将であった 亦中興開基稲垣長門守太篤公は前本堂建立に多大の浄財を奉納された 長門守は若狭守より七代目に当たり少年時代より大変慈悲深い方で五十代突如出家入道され文久二年十二月逝去當寺葬により寺墓所に埋葬されている亦十四代目大祥公(安政六年生昭和七年逝去七十四歳)は貴族院議員二十五年奉職従二位勲二等受章し特に先住十九世豊純祐道和尚は大祥公と深く親交有り度々総代を同行し在京の稲垣邸を表敬訪問した 稲垣家の末裔は現在神奈川県平塚市に在住され十六代目を継承されている
さてこの度本堂改築円成の経緯は 安政元年に上棟既に百五十年を経過し特に土台基礎茅葺き屋根等の老朽化著しく住職総代深く憂慮し平成五年十二月地元檀家を集め改築勧募五カ年計画の趣旨を説明した処檀家一同賛同下され直ちに改築委員会を結成する 偶當寺霊園造成以来の設計士菅原毅先生設計管理の下平成九年二月大阪市金剛組により改築施工開始平成九年十一月無事竣工した
これ偏に仏天のご加護と地元檀家及び新しい檀信徒各位の普断の敬霊崇祖と奉仕の誠が多くの難関を乗り越えこの大事業を無異円成したものである 茲に仏祖の照鑑を仰ぎ寺史並びに改築の由来を略記し寺運隆盛を期すると共に永く後世に伝える
平成十二年八月吉辰
当寺二十世道純哲雄撰
日汀野口林造書
畊石野口孝刻
境内掲示板
保泉寺
所在地 熊谷市小江川
保泉寺は、曹洞宗の寺で、東方山保泉寺と称し、本尊は釋迦如来である。天文年間(一五三二~一五五五)の開創で、開山は野原文殊寺四世玉岑宗彝禅師、開基は旗本の稲垣若狭守重太である。
寺宝の古文書によると、貞観四年(八六二)に現在地から東方約五〇〇メートル離れた場所に、天台三世慈覚大師が天台宗洞仙院を開創したが、天文年間この寺の荒廃ぶりを見た玉岑禅師は自らの浄財を使い改築復興をし、曹洞宗に改宗した。それから約七十年後、この地の領主となった稲垣公によって現在地に移され、大伽藍を創建し、寺の名を南部山麓にある清泉水のすばらしい薬効と、仏法の源泉とを合せて寛永元年(一六二四)に保泉寺と改称した。
平成十一年十二月
埼玉県 |
神社・お寺情報 |
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例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】zx14r
【
最終
更新日時】2025/05/10 12:14:55
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